経済産業省
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産業遺産活用委員会(平成20年度第2回)-議事録

日時:平成20年9月11日(木)10:00~12:00
場所:経済産業省本館17階西3国際会議室

議題

  1. 平成20年度近代化産業遺産の公募について
  2. 新規ストーリー案について
  3. その他(今後のスケジュール、第3回委員会の日程等)

出席者

西村座長、赤崎委員、小風委員、清水(慶)委員、清水(愼)委員、丁野委員、西木委員、藤井委員、布施委員、堀井委員、松尾委員、松平委員

議事概要

  • 事務局松井

    ただいまより、平成20年度第二回産業遺産活用委員会を開催します。まず初めに、本委員会の開催に先立ち、経済産業省の大塚大臣官房審議官からごあいさつをお願いいたします。

  • 大塚審議官

    皆さん、おはようございます。この会議は、出席率も集まりも本当にいい会議で、定刻前にほとんどの皆さんがおそろいになります。ありがとうございます。

    今日は第二回ですが、前回のあとに公募を開始し、9月1日に締め切りましたが、そのあとにも来ました。その状況と、新しいストーリーの現状をご審議いただきます。今回と次回までの間に、去年もやりましたが、現地調査を予定しています。私もいくつか行きましたが、これは本当に面白いです。地域を分担して行きますが、皆さん、ぜひ行ってください。

    今も委員長と話しましたが、昨年認定した産業遺産をうまく活用している事例も多くあります。それも含めて、去年経産省が産業遺産の認定をしたフォローアップにいろんなことが考えられると思いますが、「どのように活用して、どのような方向に、産業遺産のわれわれのムーブメントを持っていくか」というのも、次回か次々回にじっくり時間を取って議論をいただきたいと思います。今日はよろしくお願いいたします。

  • 事務局松井

    ありがとうございました。続きまして、各委員の紹介ですが、今回は第二回ですので、前回欠席の委員のみ、名前を呼ばせていただき、それをもって紹介とします。

    お茶の水女子大学大学院人間文化研究科教授の小風秀雅委員です。独立行政法人国立科学博物館産業技術史資料情報センター参事の清水慶一委員です。社団法人日本観光協会総合研究所所長の丁野朗委員です。作家の西木正明委員です。なお、村橋委員は所用により欠席です。

    議事に入る前に、お手元の資料の確認をします。議事次第、出席者名簿、配席表、議論のポイント、「資料1公募リスト」、「資料2ストーリー案」、「資料3委員会現地視察(案)」、「資料4近代化産業遺産(20年度事業の進捗について)」です。これから先の議事進行については、西村委員長にお願いします。

  • 西村座長

    おはようございます。この委員会は、大体3回か4回を予定しており、今日は2回目です。公募の結果、「どのようなものが集まり、どのようなストーリーが立てられそうか」という中身を議論していただくことが中心になります。よろしくお願いします。

    「議事1公募結果について(報告)」と、「議事2ストーリー案について」を、まとめて報告をいただき、そのあと、まとめて議論をします。事務局から、公募リストに関しての報告をお願いします。

  • 能勢企画官

    経済産業省の能勢です。8月1日に着任しました。よろしくお願いします。「議論のポイント」を、簡単に説明をします。

    今回の公募については、7月末に各都道府県に対して説明をしました。その後、いくつかの市町村に対しては、個別に注意喚起をするかたちで公募をしています。9月8日時点で、応募者数は58件、遺産数は238件です。去年と比べて少ないのは、「公募期間が若干短かったこと」、「お盆が入っていること」から言えば、現状の進み具合としては、そんなに悪くないという認識をしています。

    ただ、現時点の課題としては、ストーリーごとに公募が来ている遺産の数等に相当なばらつきがあります。鉄道関係などは割と公募がありますが、例えば板ガラスや居留地レジャーは応募がないような状況です。事務局で、あり得る遺産をいろいろ当たりましたが、現存しているものが見当たらないような状況です。「このような取り扱いをどうするのか」ということがあります。他方で、28のストーリーで公募をしたところ、新しいストーリーが考えられるものもありますの、これも併せて審議をお願いします。

    公募の体制は、引き続き、一般に関して門戸を開いておきます。今回の委員会で、「こういう遺産は絶対にはずせない」というような指摘をいただいて、これを踏まえて、個別に管理者、所有者に働き掛けたいと思います。細部、具体的な内容については、「資料2ストーリー案」で説明がありますが、ポイントは以上のとおりです。

  • 西村座長

    「資料1」の具体的な説明はいいですか。

  • 事務局松井

    ストーリーの中で行います。「資料1」は、58の応募と遺産数238の内訳です。

  • 西村座長

    黄色い辺りの三つを、今日はメインに議論をしていただきます。それを念頭に、ストーリーに入っていきましょう。よろしくお願いします。

  • 事務局松井

    「資料2」を見てください。昨年度から継続の委員は慣れていると思いますが、かなりの分量になっていますので、簡単にかいつまんで紹介をします。最初に「1」から「14」までの説明をして、そこで1回切って、前段の議論をいただいて、そこから後半の「28」までの説明をして、もう一度後半の議論をいただいて、最後に、新規のストーリー案の説明をしながら、さらに新しいストーリーとしての意見などをいただければと思っています。よろしくお願いします。

  • 事務局河島

    14個のストーリーを10分間ぐらいで説明しますので、一つ当たり1分もないという状態で、流れだけの説明になりますが、ご容赦ください。表紙の部分に、文中の凡例を示しています。「青字」で示しているのは、公募で挙がってきている遺産です。「赤字」で示しているのは、公募では挙がっていませんが、技術史、あるいは地域史の観点から見て、事務局サイドが重要と考えているものを挙げています。これは、今日の議論の材料として提示しているものです。

    「1」は、内燃機関に関するストーリーです。ここでは、「動力の変遷に伴い、どのように国産化等が進められていったか」ということで、幕末期から水車が用いられていましたが、だんだん蒸気に移り変わり、蒸気機関としてまず蒸気船が導入され、続いて工場にも導入されました。「小型化」になると、蒸気は出力が低下し、都合の悪いところがありました。そこで、小型向けに内燃機関、いわゆるエンジンが普及するという流れがあります。内燃機関の中でも、ガスエンジンが導入され、池貝等により国産化され、小型の動力として重宝されました。

    続いて、石油類を用いる内燃機関の普及が始まります。これも、池貝等が国産化を先導し、そのほか、今のヤンマーディーゼルや、地方では島根県の佐藤造機が重要な役割を果たしました。このような小型・高効率の内燃機関の開発・普及が、小規模な工場や農業分野、小型船舶、自動車等、幅広い分野の近代化に大きく貢献したという流れでストーリーを組んでいます。

    「2」は、工作機械のストーリーです。当初は、工業製品の製造に伴い、「主要な部品を輸入して国内で組み立てる」というノックダウン生産的な手法が取られていましたが、完全に機械の国産化をすることになると、高精度の工作機械を導入し、さらには、「工作機械自体を国産化することが不可欠」ということで取り組みが始まりました。

    輸入品から国産化に移る過程では、工部省赤羽工作分局によって生産され、民間では、これも池貝等が大きな役割を果たし、国産化を開始します。政府は、「日露戦争時の工作機械調達に非常に困った」という経験から増産の施策を取り、その中で、大隈鉄工所あるいは唐津鐵工所の国産機械の製造が始まりました。第一次大戦のあと、一時的に生産が減退したこともありましたが、国の支援等により国産化が進展し、第二次大戦までには、一通りの工作機械を国内で生産することが可能になったというストーリーを組み立てています。

    「3」は、自動車のストーリーです。自動車は、こんにちでは、「工業国日本」の代表的製品になっていますが、「その基盤は戦前に確立されたのではないか」ということでストーリーを組み立てています。自動車の歴史もやはり輸入に始まり、日本初の蒸気自動車である「山羽式蒸気自動車」、ガソリン自動車の「タクリー号」などが生産されますが、なかなか量産の域には達していませんでした。

    第一次大戦のあとに、軍部が補助等を行い、「スミダ」、「TGE」、「ダット」などが、年間数百台程度生産される体制になりました。そのあと、関東大震災のときに、アメリカの輸入車を改造した「円太郎バス」が活躍し、自動車に対する関心が急速に高まりを見せ、それと並行するような動きとして、「国産バス第一号車」が製造される等の動きがあり、需要は拡大しましたが、国産化につながるというよりは、どちらかというと、アメリカ企業の日本参入につながってしまうような時期もありました。それに対して、国は危機感を持ち、商工省が「標準型式自動車」を定めて支援をしましたが、なかなかうまくいきませんでした。

    その後、国の動きとしては軍部主導の開発でしたが、一方、民間でこんにちの大企業である日産やトヨタの取り組みがあり、大衆向け自動車の生産が開始されました。日産は、わが国初の「自動車一貫生産ライン」を稼働させたり、トヨタは、「ジャストインタイム方式」という生産システムを取り始めたり、既に意欲的な取り組みが見られます。

    「4」は、飛行機のストーリーです。ライト兄弟が初めて有人飛行に成功したのは1903年ですが、そのあと、早くも重要性が認識され、1910年には国内初飛行、翌年には国産初の軍用機「会式一号」が製作され、所沢の飛行場で初飛行に成功しました。ただ、国産とはいえ、「欧米諸国のコピーやライセンス生産の域を出ていない」というのが正直なところでした。

    そうした中で、民間の動きとして、国産航空機生産の重要性に早くから着目した中島知久平、川西清兵衛などが、航空機の開発に乗り出し、「中島式四型」や「二式大艇」と呼ばれるような傑作の飛行機を製造しました。こうした流れの中で、昭和初期に至ると、欧米機に引けを取らない「純国産」と呼ぶにふさわしい傑作機が多数生み出され、生産メーカーも10社を数えるまでに成長し、「神風号」や「零戦」、「疾風」、「橘花」などの飛行機が生産されました。

    第二次世界大戦で敗れたことにより、近代の航空機産業の歩みはいったん止まりますが、戦後の国産機の開発の中で、例えば「YS11」の設計などに、戦前の航空機設計に従事した技術者が当たるなど、近代の技術は、戦後においても大いに継承されています。

    「5」は、耐火レンガのストーリーです。幕末に、わが国で本格的に製造されるようになったレンガは、赤レンガよりも反射炉製造のための「耐火レンガ」でした。近代においても、炉の材料として当然欠かせないものになり、技術革新と原料の開発が進みました。

    耐火レンガの国産化を狙いとして、工部省が伊豆梨本、続いて、東京の深川に耐火レンガ工場を建設し、これらで製造されたレンガが中小坂製鉄所の高炉などに使用されました。一方民間では、西村勝三が現在の品川白煉瓦に当たる伊勢勝白煉瓦製造所を創業したり、従来から陶器の産地だった岡山では、加東忍九郎が三石耐火煉瓦を設立して本格的な製造を開始したり、先進的な動きがありました。

    耐火レンガ製造の動きをさらに活発化させたのは、鉄鋼の国産化に向けた動きでした。より高品質な耐火レンガを製造するための原料の需要が高まり、例えば鳥取でクロムを産出していた若松鉱山などの開発が進みました。また、こうした原料と並行して、当然生産技術も近代化が図られ、例えば国が規格を定めて粗製乱造を防止したこともあり、ようやくわが国の耐火レンガ産業も国産化、品質向上、生産力向上等、近代産業史の中で重要な役割を果たしました。

    「6」は、化学工業のストーリーです。当然のことながら、化学工業には高度な技術水準が必要であり、ほかの工業とも深く関連する「総合産業」という性格を持つので、育成には苦労を強いられました。

    化学工業の本格的な幕開けは、大阪にある造幣局の硫酸工場でしたが、なかなか国内需要が得られず、民間に払い下げになりました。一方、明治の初期に民間が起業した化学工業としてマッチがあります。マッチは、輸出産業へと成長し、それとともに原料となる硫黄鉱山の開発が進みました。明治の後期を迎えると、化学肥料の製造が主力になり、高峰譲吉、藤山常一、野口遵などの人材が、自ら企業を起こすなどの動きが見られました。

    一方、染料、医薬品、ソーダなど、技術的に難しい製品に関しては、第一次大戦で欧米製品の輸入が止まったことが、国産化に向けた大きな転換点となりました。染料については、和歌山でわが国初めてのコールタールを原料としたアニリンの製品化に成功し、これを契機に多数の企業が生まれました。医薬品についても、政府の支援等があり、国産化と起業が進みました。ソーダ等についても、中野友礼が「電解法」の工業化に成功したことが大きな転換点となり、本格的な国産化の動きが始まりました。

    このころ、財閥系の大資本も、例えば三井財閥が、石炭を原料にして大牟田にコンビナートを築くなどの動きがありました。また、セルロイドの製造なども本格的に始まり、世界に誇るような産業に成長しました。このような動きに乗り、電気化学工業と石炭化学工業を核として、化学肥料、医薬品、セルロイド、火薬など、多様な分野が花開くことになりました。

    「7」は、板ガラスのストーリーです。板ガラスは、洋風建築の急増に伴って需要が拡大し、国産化の試みが始まりましたが、工芸品や食器のガラスと違い、板ガラスの製造には難しい部分がありました。最初の洋式ガラス工場は、民間が東京の品川に設立しましたが、その後なかなかうまくいかず、工部省の工場となり、さらに再び民間に引き継がれましたが廃業します。また、板ガラスの原料の一つであるソーダ灰も、大阪の造幣寮と東京の紙幣寮で製造が始まりましたが、古い技術を導入したこともあり、輸入品に対抗し得るものを製造することはできませんでした。

    このような閉塞状況に一石を投じたのは、岩崎俊彌による1907年の旭硝子の創業です。岩崎は、アメリカから新技術を相次いで取り入れ、経営を軌道に乗せ、ソーダ灰についても、自家生産を行うためにプラントの操業を開始し、昭和初期には、本業の板ガラスを売上額で上回るほどソーダ灰の生産で成長しました。これに続いて、現在の日本板硝子も設立され、旭硝子と日本板硝子の二大企業が同じ場所に工場を構え、切磋琢磨して成長する姿も見られました。

    「8」は、港湾土木のストーリーです。明治草創期における近代土木技術の導入は、オランダ人技術者の指導によって幕を開け、野蒜港、三国港、三角西港、いわゆる「明治三大築港」が始まりです。これに続き、日本人技術者による取り組みも始まり、その中には単純に西洋の近代技術の導入だけではなく、古くからの伝統と経験を生かした、例えばたたきの技術を土木工事に応用した「人造石工法」なども、土木技術史上、重要な出来事と言えます。人造石工法は、全国各地の港、干拓堤防などの土木工事に採用され、コストの安さとセメントに匹敵する強度が特徴でした。

    その後、本格的な港湾整備は、「近代港湾の父」と呼ばれる廣井勇の出現により、達成されます。代表的な功績としては、小樽の北防波堤、あるいは函館の改良工事などが挙げられ、日本の土木技術を世界的レベルまでに押し上げることに貢献しました。近代の港湾建設には、膨大な資金と最先端の技術が必要だったことから、最初は民が携わることなく、官の直営工事が主体でしたが、民への技術の移転が進み、本格的に請負が行われるようになったのは戦後のことです。

    「9」は、森林鉄道のストーリーです。わが国の林業は、明治期以降の近代化に伴う木材需要の急伸を受け、より組織的かつ大規模に行われるようになりました。明治の中ごろまでは、木材の輸送は人力、あるいは河川の流送等に頼っていましたが、水力発電用のダムによって河川輸送が困難な状況になりました。こうした中で、鉄道の活用に注目が集まり、国内では津軽森林鉄道の運行を皮切りに、戦後にかけて、全国各地の国有林や民有林に広まりました。

    森林鉄道は、木材搬出を目的に敷設される産業施設でしたが、山奥の林業集落の生活者にとっては、日常の足として、また生活物資の輸送手段としても非常に親しまれ、木材運輸以外にも盛んに利用されました。

    車両については、戦前は輸入の機関車が多く、その中で、雨宮製作所等による国産化が進みました。また、蒸気機関車の中には、まきが燃料として用いられる特徴的なものもありました。戦後、森林鉄道は減少の一途をたどりますが、地域に密着し、親しまれてきた存在として、胴体保存や車両保存が行われたり、路線跡が遊歩道等として活用されたり、現在にもその姿をとどめています。

    「10」は、旧居留地のレジャーのストーリーです。わが国における外国文化の需要は、当然のことながら、外国人居留地から始まりました。そのような場所で外国人向けのレジャー施設が整備され、その後、外国人との雑居が進むとともに、日本人の間にも浸透していきます。

    横浜に日本初の近代競馬場が建設され、最初は外国人だけで運営が行われていましたが、のちには日本人もクラブの会員になれるようになりました。その後、明治天皇も足を運び、現在の天皇賞の前身に当たるレースが創設されました。

    神戸では、居留地の外国人の別荘地として六甲山の開発が始まり、1901年に日本で最初のゴルフコースである「六甲山ゴルフ場」が造られました。地元はもとより、横浜や長崎、あるいは香港や上海からもゴルフと避暑を求めて外国人が訪れ、わが国初というだけでなく、周辺のアジアの国々を含めて、モデルとなるゴルフ場になったということで、非常に重要です。

    長崎では、居留地制度撤廃を受け、外国人と日本人の社交の場として「内外倶楽部」が建てられました。この建物はビリヤード室やバーなど、目新しいレクリエーションの場を提供し、これらが伝わる場所になりました。このような娯楽の一般大衆への浸透には、少しタイムラグがあります。

    「11」は、都市レジャーのストーリーです。都市の大衆レジャーの起源は、江戸時代以前の娯楽がかたちを変えたものと、殖産興業を目的に、明治期に各地で開催された博覧会をきっかけに誕生したものがあります。わが国の産業構造の変換と都市化の進行、あるいは交通機関の発達など、いろんな要因があります。週休制の生活リズムが定着し、余暇がもたらされ、動物園や遊園地、映画や演劇など、大衆レジャーが大きく発展・普及し、都市の生活文化が形成されました。

    遊園地については、「浅草花屋敷がルーツである」と言われています。最初は、上流階級が利用者の中心でしたが、徐々に、庶民向けの内容も盛り込まれました。動物園については、上野動物園が第一号であり、続いて、大阪や名古屋などにも相次いで開園しました。また、こうした遊園地や動物園の盛況ぶりに着目した電鉄資本が、沿線の顧客開拓の一環として、郊外に遊園地と動物園が一体となったレジャー施設を次々と開設しました。

    演劇の分野では、国の主導で歌舞伎を西洋風に改良する「演劇改良運動」が生まれましたが、この運動は失敗に終わり、歌舞伎は古典芸能として存続することとなり、各地の芝居小屋が衰退しました。このような政府の動きに対して、渋沢栄一ら事業者を中心に純洋風の演劇を行う帝国劇場が開場し、演劇や音楽分野の主導が資本家に移っていきました。こうしたものが、さらに大衆化していくと、芝居小屋に代わる舞台として「公会堂」が利用され、多目的公共ホールとして重要な役割になりました。

    映画についても、大正期には大衆娯楽の主役として躍り出て、各地に映画館が建設されました。このような都市型レジャーの普及は、「国力の安定に対して民力がどのように豊かになっていったか」というのを、象徴する出来事だと思います。

    「12」は、可動橋のストーリーです。江戸時代は、河川への架橋が制限されましたが、近代に入るとそれもなくなり、陸上交通と水上交通がともに発達し、その交差点に当たるような場所を、「いかにして双方の交通をスムーズに通すか」ということで、新しく造られたものです。

    現存するものは七つほどしかありません。今のストーリーは、それを順次説明するかたちで作っています。古いものから言うと、神戸にある和田旋回橋、名古屋周辺にある名古屋港跳上橋と四日市港末広橋梁、愛媛県の長浜大橋、東京の勝鬨橋、筑後川昇開橋、それぞれスタイルが異なり、可動橋はシンボリックな形状のものが多いので、今なお地域のシンボルとして親しまれているものもたくさんあります。

    「13」は、鉄道土木に関するストーリーです。わが国の地形を考えると、山岳地帯や海峡の克服が不可欠であり、鉄道もその例外ではありませんでした。トンネルについては、京都から大津間の「逢坂山隧道」が、日本人技術者のみで建設した最初のトンネルとして画期的でした。この工事では、ヨーロッパの最新技術と、生野鉱山などで培われた日本の伝統技術が融合することによって成功したことが特徴的な点です。

    この成功が、日本人技術者に大きな自信を与え、その後、柳ヶ瀬トンネル、碓氷峠、笹子トンネル等々、長大トンネルの成功につながっていきました。このような経験や新たな技術の蓄積により、世界初の海底鉄道トンネルであり、本州と九州を直結する「関門トンネル」、さらには、戦後の長大トンネル建設に生かされます。

    一方、海峡には、青函連絡船や宇高連絡船などの鉄道連絡船が就航し、広域鉄道網の一翼を担う重要な存在となりました。また、山岳の急勾配を克服する手段としてアプト式、スイッチバックやループ式など、さまざまな技術が採用されました。これらの努力により、全国の鉄道ネットワークが形成され、わが国の産業発展を支えました。

    「14」は、鉄道施設のストーリーです。鉄道の全国ネットワーク化を進めていく中で、「日本鉄道の父」とも称される井上勝が、早くから全国ネットワークと国有化を唱え、それを形成していくうえで、線路や車両の統一、鉄道施設の規格化が求められました。このような統一化・規格化は、鉄道の国有化以降に本格化し、標準仕様や標準図が順次策定され、これらに沿って建設されました。

    例えば駅舎に関しては、地方の小さい駅であれば、1930年に定められた「小停車場本屋標準図」等に応じて、整備が進みました。近代は蒸気機関車が主役だったので、その運行に欠かすことのできない転車台、扇形機関庫、給水塔等も整備されました。

    このような、近代のわずか30年間の間で、現在の鉄道ネットワークの大半を築き上げることができた背景としては、ほかの産業に先駆けて、徹底した技術の標準化が推進されたことが大きかったと言えます。以上です。

  • 西村座長

    いくつかのポイントがありました。一つは、全国版なので、公募をしたときにそれぞれの地域から出てくるものが少ないこともあり、今後は公募をこちらから働き掛けていかなくてはいけない。もう一つは、昨年出てきたものがありますが、これはダブってもいいということです。

    先ほどの「議論のポイント」にもありましたが、「7」の板ガラス、「10」の居住地レジャー、「11」の大衆レジャーは、統合することになるのではないかということで、それに対する意見もお願いします。「ほかにこういうのもある」という具体的な指摘もあると思います。どこからでも結構です。西木委員、どうぞ。

  • 西木委員

    ストーリーの説明の中で、「1」の「動力機関発展の歩みを物語る近代化産業遺産群」の中で、いろんなガスエンジンの紹介があり、真ん中辺に、「石炭や木炭、木くず等から発生させた」という指摘がありますが、盧溝橋以降、日中戦争が非常に盛んになった辺りから、軍需以外のガソリンの調達に苦労をして、代わって用いられたのが木炭エンジンです。

    ご記憶の人もいると思いますが、昭和14,5年辺りから、日本中のほとんどのバス、タクシー、トラックは、木炭用のガスを発生させる独特の釜を取り付けて走りました。私はそれを覚えている最後の年代かと思いますが、今で言うと、ロジスティックスの中核を担ったのが木炭エンジンですので、これについての言及をもう少しやったほうがいいと思います。大体70歳以上の人は完璧に覚えています。

    停車場にバスが止まっていて、動き出すと、子どもたちがその後ろに付いていきます。木炭エンジンは、エンジンが回っている間は空気を取り入れてそれで走りますが、中に入っている木炭がきちんと発火するまで、後ろでハンドルを回して空気を送り込んで着火をよくします。それが独特の音がするので、子どもがみんなそのあとをくっついて、回しながら走るので、危ないから非常にみんなが気にしていました。

    木炭エンジンの流れは約10年間で、昭和12,3年から戦争直後までは存在していました。日本の産業の中で、特に戦争に絡んで非常に大きな存在だったので、これについて、もう少し突っ込んだ記述をしてほしいと思います。

    もう一つ、「4」の航空機産業のところで、5行目の「臨時軍用気球研究会式一号」でわかるとおり、気球が日本の黎明期に活用されたことがわかりますが、気球の果たした役割にはもっと大きいものがあります。もともとは、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まったときに、ロンドンにドイツのユンカスなんかの急降下爆撃機が至近に襲いかかり、それを阻止するために、「阻塞気球」があります。そこら中に阻塞気球を上げて、急降下爆撃が侵入できないようにしました。実は戦時中、東京でもやっていました。その辺りのことについての記述があれば、余計興味のあるものになると思います。

  • 西村座長

    木炭エンジンと阻塞気球、ほかにありませんか。松尾委員、どうぞ。

  • 松尾委員

    この中には灯台が挙がっていませんが、産業遺産というと、必ず灯台は挙がってくると思います。日本各地に灯台があり、それによって海運や貿易が発展したので、それは欠かせないと思います。

    「1」と「2」と「3」に共通ですが、鮎川義介の話で、北九州の苅田町に「日立金属鋳物記念館」があります。その中に、鮎川さんの書いたものとかがあります。ここに出ている戸畑鋳物からだんだん自動車産業に発展していきますが、鮎川さんがやったのは、ゴーハムと一緒にポンポン蒸気の漁船を造り、だんだん自動車まで発展します。その過程は、日本の自動車産業にとって非常に大事なことだと思います。「1」、「2」、「3」共通で、どこがいいのかわかりませんが、苅田の鋳物記念館を取り上げておくべきだと思います。

    「4」は、前回も言いましたが、飛行船と飛行艇は飛行機の前史にあります。その飛行船が落ちた事件、そのあとに、飛行艇が落ちた事件があります。そこら辺の貴重な記録は、遺産としてよりも、この文章の中にはっきりと書き、そこから教訓を学び、航空機業界は発展していったことを話したほうがいいと思います。

    「5」は、岡山の九州耐火煉瓦が取り上げられてもいいと思います。「8」に廣井勇の話が出ていますが、弟子の青山士という人が荒川の洪水を防ぎ、今の赤羽岩淵に水門があります。それと同時に、信濃川の分水路を造り、その記念碑が残っています。これは「22」のほうがいいのかもしれませんが、青山士の功績にも触れておくべきだと思います。

    「14」に鉄道施設の話が出ていますが、北九州の折尾駅は日本最初の立体交差です。筑豊本線と鹿児島本線の立体交差で非常にユニークな駅舎なので、取り上げると面白いと思います。

  • 西村座長

    たくさん出てきたので繰り返しませんが、灯台はどうですか。もう一つストーリーを付け加えたほうがいいという感じですね。

  • 松尾委員

    前にも紹介した、日本機械学会が作った「日本の産業遺産300選」という本の中に、灯台が数カ所取り上げられています。灯台があったことが、「海の国日本」として、大事な役割を果たしています。

  • 西村座長

    最後のところで、ストーリーを付け加えないと「33」にならないので、そこでもう1回議論をしたいと思います。小風委員、どうぞ。

  • 小風委員

    今の灯台の件は、私も賛成です。今は海洋大学になりましたが、昔の東京商船大学が越中島に「明治丸」を固定しています。そもそもは、灯台の巡視船として輸入されたもので、明治29年まで使われています。例えば、明治9年の明治天皇東北行幸の帰還のときに使われ、横浜に到着した7月20日が「海の日」の原形になっています。単に灯台だけでなく、灯台に関連したいろいろな資産が残っています。明治丸は重要文化財になっていますが、そういうものも含めて、そういうかたちで取り上げていくと広がりが出ると思います。

    「1」ですが、「焼き玉エンジン」の件で言うと、もちろん陸もそうですが、海運のうえで非常に重要な役割を持っていて、大正から昭和30年代ぐらいまでの日本の小規模物流は、「機帆船」で維持されています。特に瀬戸内海を中心に木造の造船所がたくさんあり、その辺が主力になり、戦後の昭和22年ぐらいは、「日本の物流の7割を機帆船が占めた」というぐらい、非常に重要な船です。帆船に焼き玉エンジンを付けて輸送するという船ですが、これがエンジン普及のうえで非常に重要な役割を果たしています。そういう意味で、瀬戸内の造船所関係をもう少し洗い直してみると、いろんな資産が出てくると思います。

    「10」の居留地レジャーは、都市レジャーとは性格が違うので、統合するかどうかについては、もう少し検討をお願いします。居留地レジャーで言えば、ここに挙がっているテニスとかヨットとか、もう少し時代を広げてみると出てくると思います。

    例えば横浜にはヨットクラブが今も残っていますが、そういうものまで含めて、「居留地に関連するレジャー施設」と考えれば、もう少し地域的に広がってもいいので、まだ可能性はあると思います。

    「11」の歌舞伎座ですが、六代目市川團十郎の演劇改良は、歌舞伎座もそうですが、その一つ前の「新富座」が中心になってやっています。歌舞伎座は下火になったころにできて、演劇改良とはちょっと違う性格です。そのあとの新歌舞伎とか、そういうかたちで出てきた劇場なので、歴史的評価がちょっとずれている気がします。例えば、確かに演劇改良運動はだめになりますが、女優を入れた「新派」がこのころ成立しますから、そういう動きで言うと、歌舞伎座の持っている意味は、もう少し積極的に評価ができます。そういう点から、もう少し検討をし直してほしいと思います。

  • 西村座長

    丁野委員、どうぞ。

  • 丁野委員

    居留地レジャーとレジャーの大衆化は時代背景が違います。幕末から明治にかけての居留地レジャーは、小風先生が言ったとおり、いろんな広がりを持っています。「レジャー」という言葉自体が、大正時代に大阪辺りで生まれた言葉で、それを「余暇」と訳しました。その時代のレジャーの持っていた意味は全く違います。これは大阪の例を挙げていますが、浅草とかミニ浅草がいろんな地方都市にできていくという大衆化の路線をたどるので、そのような意味合いで、できれば分けて記述をしてほしいです。

    あとの議論になりますが、「24」に宝塚が出てきます。そういうつながりをどのように考えるか。これは全体にかかわることで、「『地域性』と『普遍性』の問題をどう整理していくか」というのは非常に難しくて、地域性の話を言い始めると、例えば今の宝塚を挙げると、東急沿線の文化都市開発はどうするとか、そういう話がいっぱい出てきますから、その辺の「地域性と普遍性」みたいなものを、1回整理しておかなくてはいけない感じがします。

    もう一点、ストーリーの重複という意味で、「8」に小樽、函館の話がありますが、「16」と「18」との整理がややごちゃごちゃしています。「6」と「7」のソーダ関係の統合という提案がありますが、それはいいと思いますが、第一集にソーダの話が野口遵の話で出てきます。こういうところとも整理をしておかないと、一集、二集を通して読んだ人に混乱が起きる感じがします。そのような重複をどのように整理するのか。重なっても構わないと思いますが、読む人が混乱を起こすのではないかと感じました。

  • 西村座長

    「普遍的なところ」と「地域的なところ」をどのように分けるか。その辺のコンセプトをはっきりさせておかないといけません。清水愼一委員、どうぞ。

  • 清水愼委員

    鉄道の関係でいくつかあります。蒸気機関の一番の応用が「蒸気船」と「蒸気機関車」、「工場用動力」というのは非常によくわかりますが、この中で、初めて蒸気機関車の国産をしたのは国鉄の神戸工場ですし、民間ではあとで出ますが、雨宮製作所や福岡鉄工所とか、いろいろあるので、もしそういった遺構が残っていれば、声をかけてほしいです。

    「9」の森林鉄道は、これでまとまっていると思いますが、森林鉄道のポイントは、一つは雨宮製作所の機関車、もう一つは材木を運ぶ運材台車で、これがあちこちに残っています。例えば能代とか、昔の大畑営林署とか、千頭営林署とかに残っていますから、その辺も含めるといいと思います。

    ここにも出ていますが、森林鉄道が生活にも根差したということで、王滝には理髪車が残っていますから、できれば幅広くやってほしいと思います。この「雨宮21号」のある丸瀬布森林公園いこいの森には、もっとたくさんいろんなものが残っていますから、もう少し見るといいと思います。

    「12」の可動橋は、これだけでも一つのストーリーになると思いますが、いわゆる一般の橋梁についても、例えばレンガのものとか、ガーレントラスの話とか、橋梁だけでも物語があります。その辺の橋梁をもう少し取り上げる必要があるかどうか。鉄道に関して言えば、あちこちにありますが、単に可動橋だけに限定するのか。可動橋のストーリーは面白いから限定してもいいのですが、本当の土木技術史で言えば、橋梁全体も取り上げる必要があるのか。

    橋梁は、あちこちで昔のものを転用し、転用したものが残っています。例えば昔の木曽川橋梁が、今の山形鉄道フラワー長井線に残っています。そんなかたちのものを追っていってはどうかと思います。

    「13」は、トンネルと海峡を渡る鉄道の両方を書いていますが、これもトンネルだけで十分なストーリーができあがる感じがします。トンネル技術は、日本人が一番得意としているところで、そういう意味で、早くから逢坂山隧道、そのあともずっと青函トンネルに向けて造るわけですから、トンネルだけでも十分なストーリーになり得るのではないか。

    そうすると、海峡に絡むものは、「港と鉄道」です。昔は港と鉄道がすべて連絡をしていました。それにより、物流もあり、人流もあり、ここに出ている多度津港は、昔は連絡船の拠点でした。そのほか、稚内とか敦賀港とか、長崎港とか、東高島とか、あちこちに港と鉄道がつながったところがあるので、そういうところを取り上げれば面白いと思います。例えば徳島の手前に吉野川がありますが、あそこも昔は連絡船だったはずです。そんなところも含めて、「港と鉄道」で一つあり得る感じがします。

    「14」は、いろんな鉄道にかかわる施設ですが、単なる扇形機関車、給水塔、転車台、木造駅舎だけでなく、例えば稲荷駅にある危険品庫、あるいは跨線橋、笠岡駅には、昔の双頭レールで造った跨線橋が残っています。あるいは高架橋、万世橋駅の高架橋とか、新橋・秋葉原間の高架橋とか、大阪環状線の昔の城東線の高架橋とか、そういうものが非常に残っています。

    特に万世橋は、跡地利用でいろいろ議論のあるところです。JRは「全部マンションにしたい」と前から言っていますが、千代田区は「万世橋を残したい」という話があります。そんな議論にも一石を投じるということでやるといいのではないかと思います。

  • 西村座長

    たくさん出ましたが、ストーリーにかかわるところでは、「12」を橋全体に広げるかどうかという話と、「13」をトンネルと港と鉄道に分けるかで、事務局で何か考えはありますか。

  • 事務局松井

    気になったのは、橋梁だけを取り上げるとなったときに、土木技術史としては書き込むことはいくらでもありますが、産業遺産の観点から、産業との関連で、土木遺産と切り離して今回のストーリー化をしているので、その辺をうまくストーリーに組み込めるものをチョイスできるか、心配があります。

    「13」のトンネルの後ろに少し付けているところが、何となく違和感があるのは承知しています。トンネルはトンネルだけにしたほうが、ストーリーとしては非常にすっきりします。実は多度津港も、コアのストーリーのほうで応募がありましたが、まさに「港と鉄道」との関係で組んだほうがいいということで、そっちに持っていったという経緯があります。そういうストーリーを立てれば、まさに「物流日本」からすると、鉄道と港の連結は大きな部分ですので、これはできれば分離して、新しいところも考えられると思います。

  • 西村座長

    「13」は二つに分ける方向で考えて、橋に関しては、どこまでを産業とのことで言えるのか。橋全体を取り出すと膨大なものになってしまうし、可動橋だけというのも、いくつかしかないのであれば、それだけでいいのかという話になりますから、うまい切り分け方があるかどうか、検討をお願いします。

  • 事務局松井

    新規ストーリーのところで、もう一度お願いしたいと思います。

  • 西村座長

    西木委員、どうぞ。

  • 西木委員

    トンネルの話で、ここにもよい例が出ていますが、一つ大きなものが残っています。朝鮮海峡・対馬海峡の海底トンネルです。実際に爆発物を使って地質検査までやっています。福岡マラソンのコースの一部になっている旧雁ノ巣飛行場跡、玄界灘に突き出た細長い半島がありますが、あの辺りを起点にして、「対馬経由釜山」というものですが、これを考えたのは、のちの国鉄総裁になった新幹線の創案者、十河信二です。

    具体的に言うと、「欧州連絡弾丸列車」という構想がありました。今で言うと、「東京からベルリンまでを弾丸列車で結ぶ」というものです。新幹線は、戦後あるとき突然始まったものではなく、そのための列車の愛称も戦前から用意されていました。それが「ひかり」と「のぞみ」です。戦前の昭和18年までの時刻表を見るとよくわかりますが、釜山発新京行き、あるいはハルピン行きに、ひかりとのぞみが残っています。

    もともと「ひかり」は、満州鉄道、朝鮮鉄道の人たちが、最後までこだわって残そうとした愛称で、それに対する満鉄、朝鉄の幹部の人たちの思いが、戦後の新幹線の愛称につながりました。一応公募の格好を取りましたが、言い方はよくないけれども、あれは出来レースで、最初から「ひかり」に決まっていました。

    満鉄の「アジア号」が、一番有名になり歴史に名前が残っていますが、列車番号を見るとわかります。アジアは下りが「11」、上りが「12」、ひかりが「1」と「2」です。野球で言うと、エースナンバーが「ひかり」です。戦争が非常に激化した最後の最後まで「ひかり」が残った。それくらい、「ひかり」に対する思い入れが深く、戦後の新幹線には「ひかり」の名前が当然のように付きました。「のぞみ」も実際に存在した列車名です。

    この辺りを含めて、トンネルの辺りに書き加えてもらえればと思います。現地の福岡に行けば起点の場所が正確にわかるので、その辺りのことを書くと、先人の夢みたいなものが伝わり、遺産として面白いのではないかと思います。

    耐火レンガのところで、1899年8月12日の大火で、横浜の中心部一帯が焼けました。そのときに唯一残ったのが現在の中華街、山下町です。ここにイギリス人やオランダ人の人たちが耐火レンガの工場を造り、それで造られた家々が焼け残りました。その中の一つに、山下町121番地の孫文がいた家があります。その辺りも含めて、町のど真ん中に耐火レンガの工場がありましたので、横浜の辺りで正確な場所を調べれば、多分面白いと思います。

    レジャー産業のところに、「内外倶楽部」が出ていますが、鹿鳴館がなくなったあとに、「東京倶楽部」ができました。まさにこの下の辺りだと思いますが、赤レンガの2階建ての建物があり、外国からの貴賓を相手に、外務次官が接待や会議をするときに東京倶楽部を使いました。同時に「日本倶楽部」もありましたが、日本倶楽部は、現在も麹町のビルに入っています。東京倶楽部に関しては、まさにおひざ元なので、写真も全部残っているので、所在を確認して、レジャーとは違いますが、鹿鳴館の後継施設として残したほうがいいと思います。

  • 西村座長

    軍需産業や戦争関連のものは、まとめてどこかに置くのではなく、それぞれのテーマの中に分けて入っています。昨年からの課題で、どうするかというのがありましたが、そういうかたちになっています。松尾委員、どうぞ。

  • 松尾委員

    もう一つ、水道があると思います。例えば、明治に門司が国際貿易港に指定されましたが、あそこでペストが発生しました。慌てて浄水場を造り、海外の人を受け入れることができました。そういう意味で、「きれいな水を供給する」というのは、大事な仕事でした。それを全国でやっていると思います。

    もう一つ、技術者教育の問題があると思います。霞ヶ関に工部大学校跡があります。工部大学校は、東大工学部の元になりますが、その遺跡がいろいろあります。大学における技術教育の系譜は、しっかりしておく必要があると思います。東京大学や、私立で言えば、秋田高専、明治高専とか、「工学教育をきちんとやったために日本は発展した」ということは、非常に大事なことなので、それは主張してほしいです。

  • 西村座長

    水道施設と教育施設、残っているかどうかも確認しながらやってください。清水慶一委員、どうぞ。

  • 清水慶委員

    科学博物館で、「産業遺産がどのぐらい残っているか」という調査をやっています。いろんな分野で1万5千件ほど、それぞれの会社等が持っているのを集めていますが、今年度から、もう少しテーマを絞ってやっていくことになり、今は戦後も含めた自動車関係で、どこにどんなものを持っているのか、まとめて調査をし始めています。それぞれの自動車企業は、トヨタのような立派なものではなくても、自分たちが作ったところを持っています。

    「3」は、現時点では全く公募はなしですが、資料館とかに、われわれが昔知っていたものとか、富士重工の「スバル」は、太田市の中島飛行機がやっていた航空技術を使って開発したとか、いろいろあるので、ダイハツ、いすゞ、ヤマハ、日野、富士重工等を含めて、整理をしてはどうかという意見です。

  • 西村座長

    科学博物館には貴重なデータがあるみたいなので、協力できる範囲で協力してもらったほうがいいかもしれません。小風委員、どうぞ。

  • 小風委員

    トンネルのことですが、説明にもありましたが、「鉱山の坑道の採掘技術が転用されている」というのは、非常に重要なことだと思います。一つの例で言えば、足尾銅山の坑道を掘っていた清水組が今の清水建設になっていますから、そういう視点を入れると、「産業遺産」というかたちで位置付けられてくると思うので、検討をお願いします。

  • 西村座長

    非常に参考になりました。松平委員、どうぞ。

  • 松平委員

    西木委員や清水員から、「ちょっと書き加えたらどうか」という指摘がありましたが、その流れで言うと、地下鉄について触れられていないのはいかがなものかと思います。

    日本は、地下鉄が最初にできた国ではありませんが、自分たちが歩いている土の下を鉄道が走るなんて、当時の日本人にとっては驚天動地の発想だったと思います。そのことを研究し、実現に至らしめた早川徳次の奮闘ぶりは大変なもので、実現にこぎつけたあと、五島慶太に横取りされそうなのを必死に頑張ったり、「けんか両成敗」と東京市が出てきたり、国が出てきたり、こういう物語はストーリーとしても面白いと思います。現に、「幻の新橋駅」が残っています。そのような遺産もありますから、これも付け加えたほうがいいと思います。

  • 西村座長

    「日本は地下鉄が発達している」という意味でも、世界に誇れます。布施委員、どうぞ。

  • 布施委員

    「3」ですが、ここだけタイトルが、「自動車生産・販売の歩み」というほかにない、具体的に「生産・販売」と書いていますが、このストーリーを見ると、必ずしも生産、あるいは販売の遺産の話ではないと思います。ここに書いてあるのは、「遺産群」としては、開発された車をリストアップしているので、「生産・販売」と言うよりも、「黎明期に開発された車の歩み」に絞ってはいかがかというのが、一つです。

    先ほども指摘がありましたが、当時開発された車、生産規模は別にしても、「日本人がこういった車を開発した」ということを遺産として取り上げるなら、恐らくここに書いていないような、あとは戦後のどこまでの時期か、時期は戦前ですか。

  • 事務局松井

    はい。

  • 布施委員

    なるほど。そうすると、なかなか厳しいものがあります。

  • 事務局松井

    戦後に少しでも入ると、だいぶ違ってきます。

  • 布施委員

    日本の場合は、例えばオート三輪とか、そういうところが一時期は活躍しました。現時点では公募がないということですが、ここに挙げている車は存在するものですか。一部、私どもも持っている車がありますが、それ以外に、黎明期の本当に初期のものは存在していますか。

  • 西村座長

    どうですか。

  • 事務局酒井

    本当に初期のもので、ここに挙げている「山羽式」や「タクリー号」は、レプリカしか現存しないという状況です。ただ、今回のストーリーを構築するうえで、非常に重要な遺産と考えられるものについては、「レプリカであっても一部認定をしていこう」という考えでいます。

  • 西村座長

    「3」のネーミングは工夫をするということでいいですね。堀井委員、どうぞ。

  • 堀井委員

    工作機械というと「もの作り」ですが、欧米から技術が輸入されて、突然日本でもの作りが盛んになったのではなく、実は素地がずっとあって、日本のもの作りの素地の上に工作機械が発達したと思います。

    そういう意味で、東大阪の中小企業群は古い歴史を持っています。堺の鉄砲造り、もっと言えば、「河内鋳物師」というもの作り集団がいて、欧米から最新技術が入ってきたときに、さっと実現ができました。今も東大阪には、金型やねじなど、非常に地味ですがものすごいシェアを持っている企業が密集しています。そういうことも、もの作りの歴史的背景の中で触れてもらうとありがたいです。

  • 西村座長

    全国版であれば、工作機械のところだし、東大阪ということで、地域版にストーリーを足すかもしれないということですね。それも検討をお願いします。ほかにありませんか。次に行きます。「15」から「28」まで、お願いします。

  • 事務局河島

    時間が押していますので、さらに短縮して説明をします。「15」は、北海道のレンガに関するストーリーです。レンガは耐寒性に優れていたり、防火性に優れていたりすることから、北海道の各地で生産が始まりました。函館、札幌近傍等で生産され始め、特に良質の粘土が得られる江別で盛んに製造され、北海道庁の庁舎やサッポロビールの工場等に大量に供給されました。

    「16」は、北海道の北方面の開拓に関するストーリーです。この地域は気候が厳しく、開拓はなかなか進みませんでした。沿岸部で、江戸時代のニシン漁を起源とする増毛等が発展を見せ、続いて、南側の端に当たる旭川で、陸軍の動き等に関連して鉄道が伸びて開発が始まります。

    明治後期を迎えると、これらの「点」を起点とする「線」として、まず北から内陸の水運が天塩川に沿って発展し、一方、南の旭川周辺から鉄道が西、あるいは北へと伸びて、稚内に結び付くようなかたちで、徐々に内陸にも開拓が進み、「今にもつながる交通ネットワークができて産業が発展した」という流れでストーリーをまとめています。

    「17」は、北海道の東方面の開拓に関するストーリーです。こちらも北方面と同様に、なかなか開拓が進まず、釧路の内陸にある硫黄山の開発が開拓の契機になりました。もっと早期に内陸を開拓するためには、「東西に札幌ともつながる鉄道の整備が必要」ということで、東西方面の鉄道が、狩勝峠を越えて連結され、主要路線に接続するかたちで、一つは根釧台地に鉄道が通じたのをきっかけに、酪農等の開発が行われ、もう一つは、帯広から北方面に士幌線が通り、林業の開発がさらに進みました。

    「18」は、函館・小樽の物流のストーリーです。函館は幕末に開港され、早くから近代的な都市として発展します。その中で、海産物の輸出が非常に盛んになり、貨物を処理するための倉庫の需要が増加し、金森倉庫等の民間倉庫業が急速に発展しました。

    一方、小樽は、開拓使の札幌移転に伴い、重要な港として位置付けられ、石炭の積み出し港になったこともあり、急速に発展しました。小樽は、のちに「海産物の函館」に対して、「農産物の小樽」として、対照的な発展を遂げ、この両者が北海道の物流を牽引していく、近代の重要な存在となりました。

    「19」は、東北の開発のストーリーです。明治天皇の東北行幸を起点としてストーリーを書いています。大久保利通をはじめ、明治政府の首脳たちが、東北の開発にあたり、「水資源」と、水運・鉄道・道路の「交通網整備」を重視して開発を進めました。まず、安積疎水の動きがあり、野蒜築港の整備をきっかけに、北上川から松島湾、阿武隈川を結ぶような水運網が構築されました。

    道路に関しては、三島通庸が、「道路整備が必須」と判断し、山形と東京、あるいは仙台を結ぶトンネルなどを整備し、また、擬洋風建築を採用した公共施設を整備しました。鉄道に関しては、東北本線が大動脈として通り、これに接続するような支線も整備され、地域開発が進みました。

    「20」は、百貨店のストーリーです。百貨店の始まりは三越呉服店です。三越は、陳列販売方式やショーウインドーを設置するなど、新しい商法により大衆の購買意欲を高めました。大正時代になると、百貨店がブランドとしての力を持ち、建築においても洋風建築を採用し、高級イメージを広く伝えました。

    一方、呉服屋系の百貨店とは異なり、電鉄会社を母体としたターミナルデパートとして、阪急が梅田駅に開業しました。こちらは高級イメージよりも、どちらかというと、「安くて買いやすい」という庶民向けのコンセプトで、また違う方面で発展しました。「家族の行楽の場」として、百貨店が利用されたことは重要なことであり、家族が1日で出掛けて楽しい場所を提供しました。

    「21」は、東海の食品のストーリーです。東海地方は、温暖な気候、豊富な水資源等々、醸造業に適した土壌があり、近代もこれらの醸造業が発展しました。その代表的なものはミツカンです。江戸時代の江戸前のにぎり寿司と関連した発展がよく語られますが、近代に入っても、近代的な工場や倉を整備し、食酢の最大手として成長を遂げました。また、ミツカン等により、カブトビールが設立され、好評を博したという出来事もありました。そのほか、みりんや醤油等々、多様な醸造業が発展しました。違う流れになりますが、中部地域では、現在のカゴメがトマトソースの量産化に成功し、発展しました。

    「22」は、東海の河川沿いの開発のストーリーです。東海地域は、大きな川が何本も流れていて、古くから木材の生産地でした。一方で、特に木曽三川の下流部においては、治水が長年の課題であり、デレーケにより三川の分流工事が行われ、乗り越えました。

    このような治水対策の一方で、木材が集まる下流部において、木材資源を活用した新たな産業が発展します。例えば製紙業や、ヤマハや鈴木バイオリンに見られるような木材による洋楽器の製造等があります。このように、東海地方で木材工業が発展した背景には木材資源があり、それに加えて、木材加工技術の蓄積も大きかったと言えます。

    「23」は、大阪の都市計画と産業発展等に関するストーリーです。大阪は、明治維新の改革に伴い、江戸時代には「天下の台所」と呼ばれていたような経済的な機能が失われ、一時的に落ち込みましたが、五代友厚らの働きにより、経済の活力を取り戻します。

    都市基盤という意味では、デレーケが淀川の治水事業を行うなど、再び発展を始めます。当時は、「東洋のマンチェスター」と呼ばれた活力を背景に、中之島の公会堂や図書館のような優れた建築物が、民間の寄付によって設立されるという出来事もありました。一方、都市計画の面では、池上市長や關市長が、当時では画期的な御堂筋や地下鉄などの都市計画を進め、都市基盤が整いました。昭和初期には、市域の拡張等もあり、「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれるような日本第一の都市になりました。

    「24」は、阪急電鉄等のストーリーです。阪急は、都市の大衆消費市場に向けて、「消費者志向のビジネス」を経営理念に掲げ、挫折寸前だった鉄道敷設計画を、沿線の不動産開発により顧客を作り出すことで乗り越えようとします。また、住宅開発と並んで、レジャーの面でも顧客を開拓するというのも、小林一三の斬新なアイデアでした。例えば宝塚新温泉、あるいはプロ野球球団の経営、宝塚歌劇等があります。ターミナルデパートとして阪急百貨店を開店させるなど、多角的な経営モデルを作りました。

    「25」は、関西の家電製造に関するストーリーです。松下の存在が非常に大きいものとしてあります。創業以降、「二股ソケット」や「スーパーアイロン」等のヒット商品を次々と生み出し、事業を拡大し、その中で「水道哲学」と呼ばれる理念や、経営の面では「事業部組織制」、販売の面では「連盟店制度」など、斬新な取り組みで事業をさらに拡大していきました。

    一方、シャープは、「まねされる商品をつくれ」という精神に基づき、独創的な開発、あるいは流れ作業の導入等、画期的な取り組みを行い、戦後大阪で再出発をしてからは、ラジオで非常に発展を遂げました。

    「26」は、関西の私鉄に関するストーリーです。「都市間を高速電車で結ぶ」というのは、阪神電気鉄道から始まりました。これがビジネスモデルとして広まり、関西ではほかにも阪急や、京都・大阪間の京阪、大阪・和歌山間の南海、大阪・奈良・三重方面の近鉄など、各社が相次いで高速鉄道を建設し、ブームと言えるような状況になりました。しかも、それらは相互に、あるいは国鉄も含めた競争を行う中で、サービスと技術開発が進み、単に鉄道技術や経営だけでなく、沿線開発等も一体的に進められ、関西独特の私鉄文化が形成されました。

    「27」は、瀬戸内の利水に関するストーリーです。瀬戸内は、気候的に雨が少なく、後ろの山が深くないことから、「水が得にくい」こともあり、明治に入ると、近代土木技術を用いた利水事業が多数行われました。

    例えば、兵庫県の南の淡河川疎水や山田川疎水、香川県の讃岐平野の豊稔池ダム、あるいは古いため池の万濃池でも、かさ上げや樋門(ひもん)部分の近代化が行われました。

    岡山平野では、利水だけでなく治水も合わせた総合的な事業が行われ、九州では、瀬戸内海に注ぐ大野川の流域に白水溜池堰堤が造られるなど、さまざまな事業が行われました。

    「28」は、九州の窯業に関するストーリーです。古くから窯業の一大産地である肥前、佐賀県地域の近代化は、東京と長崎をつなぐ電信網の敷設がきっかけになりました。碍子の発注が有田に大量に入り、それを受けて企業の合同が進み、香蘭社が設立されるなど、いろいろと近代化の動きを誘発することになりました。さらに、その後も鉄道が通じることで、小規模な窯元が合同したり、近代的な技術を導入したり、産地としてさらに大きくなりました。

    一方、佐賀県地域と並んで北九州においても、由来は愛知県ですが、衛生陶器の製造が始まり、わが国の生活の洋風化とともに、衛生陶器の開発と普及が進みました。以上です。

  • 西村座長

    地方版ですが、いかがでしょうか。松尾委員、どうぞ。

  • 松尾委員

    「28」の北九州の窯業近代化の話ですが、「TOTO歴史資料館」もいいと思いますが、八幡製鉄所で、日本独特の鉱滓(こうさい)を固めて造る鉱滓レンガを造りました。今も北九州には、塀などが残っています。それはユニークなものだと思います。黒崎窯業は、社史を何回か作っていますから、きちんとしたデータを持っているはずなので、確かめるといいと思います。

    「22」は、先ほど言った青山士の話ですが、信濃川の分水路を造って潅漑をし、米穀地帯を改めたわけです。信濃川を東海地方に入れるかどうかはありますが、日本最大の治水事業は信濃川だと思うので、それは入れてほしいです。先ほどのところで青山士の話をしましたが、どちらに入れるかはお任せしますが、それはきちんと残してほしいです。それと併せて、荒川の治水も、岩淵の水門は大変貴重な文化遺産だと思います。

  • 西村座長

    青山士はパナマ運河を造った人ですが、どこかに入れることでお願いします。赤崎委員、どうぞ。

  • 赤崎委員

    「22」ですが、水運・治水と木材加工が一緒になっているところが唐突な感じがします、木材加工技術の蓄積は、川を介して、山から木材がやってきましたが、これは単独で成立すると思います。さかのぼると、絡繰り(からくり)みたいなものから時計に移り、大正時代の時計はアジアの市場を席巻していた時期があります。

    ここには楽器が出ていますが、家具の産業もこの辺り一帯は栄えているし、鉄道の車両も、最初は木で箱を造っていたので、それだけで一つの項目を作ることができると思います。

    そうすると、水運・治水の数が少なくなりますが、以前私も、木曽三川の排水機をたどりながら、八百津発電所までさかのぼったことがありますが、結構流域沿いにいろんなものが残っているので、分けたほうがはっきりすると思います。

  • 西村座長

    その辺、事務局はどうですか。

  • 事務局松井

    木材加工の応募がなくて、二の足を踏んでいるところがあります。ヤマハには直接相談をし始めましたが、なかなか出てこないので、そこら辺が不安です。

  • 赤崎委員

    ブラザーでも、今は全く手掛けていませんが、過去の歴史の中ではオルガンを造るなど、いろんなことをしているので、それは遺産としてお持ちだと思います。

  • 事務局松井

    愛知時計は何かありますか。あそこが入れられれば、一番話が作りやすいのですが、調べてもなかなか出てこなくて困っています。

  • 赤崎委員

    私も「愛知時計で何か」というのはよく知りませんが、あそこは一大拠点でしたから、何か関連のものが残っていれば、相当ストーリーができると思います。

  • 西村座長

    一度トライして、うまくいくかどうか、やってみるということですね。

  • 事務局松井

    そうですね。水運・治水は、砂防関係の遺産は非常にたくさんありますが、先ほどの橋と一緒で、土木技術的な問題と、治山治水そのものが公共事業の部分があり、産業遺産としての面から取り上げるときに、若干組みにくくなる部分があります。

  • 西村座長

    ただ、ある種のインフラで、「それがあったからいろんな産業が発達した」ということがあるので、あまり切ると、トンネルでもそういうところがあるので、そのものは土木遺産かもしれませんが、後ろにいろんな貢献をしたことを書けば、できなくはないと思います。そうすると、砂防も出ていますから、全国的な展開の中に入れられるかもしれません。

  • 事務局松井

    先ほど信濃川の話もありましたので、そうやって入れていけば、淀川もありますし、いろんなところにありますので、全国ストーリーで作ったほうが作りやすいと思います。

  • 西村座長

    清水慶一委員、どうぞ。

  • 清水慶委員

    「25」の題名は、「松下流革新的経営の展開と大衆消費材たる家電産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群」ですが、去年私どものところで「家電展」をやりました。そこで調べたことですが、例えば冷蔵庫とかテレビとか、ああいうものを「家電」と言っているのであれば、恐らく昭和30年代以降の高度経済成長期に大衆家電が普及したので、「戦前はどうだったか」というと、言葉としては当てはまらないように思います。

    もう一つ、松下電器は「松下幸之助記念館」を持っていて、ここで言ういろんなものが展示されていますが、肝心の松下幸之助が公募リストに入ってないと、変な感じがします。

    戦前であれば、家電は主に金持ち向けに、アメリカのGEとか、そういうところで造ったものを、東芝や日立がライセンス生産をやってきたので、仮に「家電」で出すのであれば、戦前においては、東芝や日立が向こうのものを導入し、併せて、戦後それが広がる基を松下やシャープが造っていたとか、そういう解釈をしないと、これだけを出すと、少し見方が片寄るように思います。

  • 西村座長

    工夫をお願いします。

  • 事務局松井

    近畿のストーリーで書いていたので、また、相談をします。

  • 西村座長

    丁野委員、どうぞ。

  • 丁野委員

    「19」ですが、非常に広くてどうとらえるのか、先ほどから迷っていました。少し飛躍しますが、第一集では木曽川水系と琵琶湖疎水が出てきますが、安積まで疎水の話をするのであれば、このあとの日橋川水系とか、樽見川水系の電源開発のストーリーが欲しいです。

    実際に、「首都圏のエネルギー確保」という面では、日橋川水系の電源開発の歴史は非常に大きな意味を持っています。去年はいわきの石炭を取り上げましたが、それと同じような意味合いを持った電源開発というような歴史を持っているので、そこまで触れるか、あるいは新たに項を立てられるなら立ててほしいというのが一点です。

    二点目は、愛知時計の話が出てきてぴんと来ましたが、「時を計る技術」というか、計時技術や計量技術は、産業革命のコアテクノロジーの一つで、かたちは見えにくいけれども、非常に重要な意味を持っていました。例えば京都の時計や服部セイコーなど、「時を計る技術の近代化」は、ストーリーとしては非常に重要な役割を持つと思います。「どういうものをどう集めてくるか」というのは、ものがあまりなくて、ミュージアムが少し残っているぐらいで非常に難しいのですが、重要な部分になると思います。

  • 西村座長

    「計量・計測技術で立てられるか」というのは、どうですか。

  • 事務局松井

    丁野委員が言われたように、ものが非常に少ないのと、企業秘密の部分が大きくて、取り上げてうまくストーリーに出せるほどのメンバーがそろってくるかどうか。まさに愛知時計も、そのあと、航空機のメーターに行って、だんだんものすごい発展をしていくのは非常に面白そうですが、なかなかブラックボックスの開かないところがあり、今からの時間的なことも考えると、荷が重い、悩ましい宿題だと思います。

  • 西村座長

    話を聞いていると、最後の新しいところで随分出ています。ある意味、「33」の候補はきちんと書いて、それ以外の残りのものは、こんなに立派なものでなくてもいいので、「こういう項目で、どんな課題があって、どこまでやれそうか」、皆さんに議論を提供できるようなものがあれば、その段階で「あきらめるか、どうするか」という判断ができると思います。せめて、それぐらいはやってもらうと、次の議論がやりやすいと思います。

  • 事務局松井

    はい、わかりました。

  • 西村座長

    よろしくお願いします。松尾委員、どうぞ。

  • 松尾委員

    前回も提案をしたように、精密器械は取り上げたほうがいいと思います。時計にしても、矢頭良一の自動そろばんにしても、現在のコンピューターにつながっているので、そういうところを入れるといいと思います。精密器械は、日本にとって大事な産業だったので、別の項目として挙げたほうがいいような気がします。

  • 西村座長

    検討をお願いします。清水愼一委員、どうぞ。

  • 清水愼委員

    北海道は地域別になると思いますが、道東や道北をやるときに、ぜひ「北海道殖民軌道」の言及をしてほしいです。例えば、道北であれば歌登町営軌道とか、道東でも昔のものが残っていますから、そういうものが挙がってほしいです。

    日本で初めて鉄道は、道北の茅沼炭鉱鉄道で幕末にできています。ほとんど残っていませんが、本州の鉄道と違い、北海道の開拓使が勝手に鉄道を作っていますから、ぜひ北海道殖民軌道のことを言ってほしいと思います。

    「19」の東北は、右側には、山形の旧県庁舎や県会議事堂、文翔館が出ていますから、七日町の町作りにも言及するといいと思います。下のほうに、軽便鉄道が出ていますが、松山町に人車鉄道が残っています。必ず申請をさせますから、ぜひ人車鉄道にも触れてほしいと思います。

  • 西村座長

    西木委員、どうぞ。

  • 西木委員

    今、小林多喜二の「蟹工船」がブームになっていますが、北海道の留萌方面のニシン御殿は見事なもので、「御殿」の名に恥じないような立派な建物や網元のお屋敷、番屋など、一連のものがずらりと残っているので、一考の余地があると思います。

    知床半島にも、サケ・マスやウニのための番屋がいまだにたくさん残っています。森繁久弥主演の「地の涯に生きるもの」という、冬の間番屋の番をする老人の話がありましたが、いろんなドラマがあるので、「番屋」と「ニシン御殿」は、道東、道北、日本海沿いの沿岸部も含めて、一考の余地があると思います。どういうくくり方をするのか、考えなくてはいけませんが、漁業の歴史の中で、絶対に欠かせないものだと思います。

  • 西村座長

    漁業は大丈夫ですか。「近代化産業」と言えるかどうかというのは、どうでしょうか。

  • 事務局河島

    一応ストーリーの中でも、「近代の初期には、江戸後期に引き続き、漁業が重要な産業だった」ということは言及しているので、仮に公募で今後挙がってきたとすれば、含めることは十分可能だと思います。

  • 西村座長

    ほかにありませんか。議論を進めます。次は、57ページ以降の「公募結果等を踏まえた新規ストーリー案」です。よろしくお願いします。

  • 事務局河島

    57ページは、公募で「瀬戸内海の醸造業・製塩業関係」がかなり挙がってきたので、それをベースにストーリーを組んではどうかという提案をしています。

    58ページ上段の部分は、愛知県の刈谷市から、「依佐美送信所」の関連遺産が挙がっているので、これもストーリーのネタになるのではないかということで提案をしています。

    下段の大阪の食に関するストーリーは、前回の堀井委員からの提案と、来年は「食博覧会」が開かれるなど、いろいろな取り組みをしているので、可能性として考えられるのではないかということで提案をしています。

    この三つは、あくまでも事務局の試案ですので、これをネタに議論をしていただければと思います。以上です。

  • 西村座長

    28個のうち、レジャー産業は、「旧居留地は独立させたほうがいいのではないか」ということで、まずはその努力をして、「6」と「7」に関しては、意見がなかったので統合の方向で考えると、27個になるので、「33」にこだわると、「六つのストーリーを立てたほうがいい」ということですね。松平委員、どうぞ。

  • 松平委員

    全くの印象論ですが、「20」と「24」に重複感があります。例えば、「ターミナル駅が百貨店」というところを整理すればそれで済むのか。あるいは、新しいストーリーを考えて一本にまとめる作業をするのか。「何か重複感がある」というのが、印象です。

  • 西村座長

    確かに、言われるとそうですね。藤井委員、どうぞ。

  • 藤井委員

    一番気になったのは「20」と「24」の重複です。後半の地域のところで挙がっている「20」と「25」は、地域ということで切れるのかどうか、疑問に思っています。特に「20」の場合は、「百貨店」という一つの産業と、さらに後半は阪急百貨店で、エリアの中できちんと充当できると思います。「25」に関しては、一つの産業として、先ほど東芝の話もありましたが、全般にもう少し広げたほうがいいと思います。

    そういう意味で地域のことを見ると、地域の広がり、産業の広がりをもう少しとらえて、そちらを広げるのも面白いと思います。それが後半の公募として挙がっている部分に充当されると思います。

  • 西村座長

    「全体のバランスでどうか」という話は、大変重要だと思います。ほかにいかがでしょうか。「20」、「24」、「25」について、どうでしょうか。

  • 事務局松井

    「25」については、清水慶一委員の意見にもあったように、「家電」という産業として、全国ストーリーとして採り上げたほうが、バランス的にいいと思います。

    「20」と「24」については、「20」を当初案で出したときには、「東京の都市計画」として一本ストーリーを考えていました。大阪の都市計画のストーリーがもう一本、大阪の地方版としてあったので、昨年の横浜と神戸のようなかたちで、両方あったほうがいいだろうということで、先に「東京の都市計画」で出しましたが、なかなか公募が出にくいことと、東京の場合はビルが今でもいろんなかたちで使われていて、この短期間の中で、複雑な所有形態の人たちの了解を取るのは難しい部分が多く、以前、「アプローチをしてみます」ということで、出してなかったデパート系のストーリーに、急遽差し替えたかたちになっているので、それでバランスを崩している点があります。

    東京都関連の橋梁も含めて、隅田川の橋梁とか、その辺がうまく出てくれば、「東京の都市計画のストーリー」というかたちでの組み方もできると思いますが、そこはまだ読み切れません。

  • 西村座長

    ここに載っている「20」は、前にわれわれが見たものと変わっているということですか。

  • 事務局松井

    タイトルが変わっています。

  • 西村座長

    田園都市線とか、東急がやっているようなものを想定していたわけですね。

  • 事務局松井

    日本橋や銀座には古い建物があるので、その辺をイメージして、主には銀座、日本橋辺り、旧三井本館の建物とかのイメージを持ってストーリーのタイトルを付けていましたが、出してもらうのは難しいということで、急遽変えました。

  • 西村座長

    それで、「24」と似た感じになったということですね。赤崎委員、どうぞ。

  • 赤崎委員

    きっといろんな視点があると思いますが、「生活文化産業」は、重要な観点だと思っています。「20」は百貨店になっていますが、もう少し範囲を広げて、映画館とか、商店街みたいなものとか、そういうところまで広げてみると、「都市の生活文化産業」でできる気がします。

    「24」は、あくまでも、「鉄道敷設に伴う町作り」という観点で、細かいことで言うと、「宝塚温泉の前に花屋敷温泉があって、日本で最初のトロリーバスはそこで走っていた」と、JRで聞いたことがあるので確認をしてください。一般的には、「東の堤・西の小林」ということで、鉄道を敷いて、その周辺にいろんな商業施設ができて、住宅街ができてということで、西と東できちんと対比をして見せるのも、ストーリーとしては面白い気がします。

  • 西村座長

    ほかにどうでしょうか。西木委員、どうぞ。

  • 西木委員

    今の意見に感銘しました。確かに、撮影所と映画館の興亡は、戦前の非常に大きな文化だったので、映画ははずさないほうがいいと思います。

    東京でも、文京区の東大の近くに「大都映画」という映画会社があって、のちの大映になりますが、ハヤフサヒデトとか、近衛十四郎とか、戦前の大スターたちをたくさん輩出したところで、都心のど真ん中に撮影所を構えていました。「懐かしの大都映画」という写真集もノーベル書房から出ています。これは代表的な例ですが、京都の太秦撮影所とか、大泉の東映でも、単なる倉庫みたいになっている撮影所があるので、そういうものを日本中で集めると、結構いろいろあると思います。調布の日活も見せ物みたいになっています。

    ちなみに、大映の創立者だった永田雅一は、京都の千本組というこっち系の幹部だった人です。それが、世界のいろんな賞を取る映画会社の社長になったというのは、ある意味、映画の歴史の興亡と重なって面白いと思います。「映画を入れる」というのは、私は賛成です。

  • 西村委員

    意見を聞いていると、「20」は全国展開をして、「24」との違いをはっきりさせるほうがいいようです。

  • 事務局松井

    あまり都市計画にこだわらず、生活文化産業として整理をすると、「11」とのダブりが出てくるので、そこら辺も整理をしたいと思います。

  • 西村座長

    統合されてしまうかもしれませんね。「20」は変えるということでよろしいですか。

  • 事務局松井

    はい。

  • 西村座長

    ここで提案されている三つに関しては、いかがでしょうか。清水慶一委員、どうぞ。

  • 清水慶委員

    「電機通信技術の発展の歩みを物語る近代産業遺産群」は、積極的に取り上げてほしいです。グレート・ノーザンというデンマークの会社が、シベリアを通ってヨーロッパまで、長崎とつなぎました。それも、東京と長崎の国内線よりも早くつながりました。そういう遺構が残っています。

    もう一つ大きいのは、フィンランドはラジオ送信局を世界遺産にしているので、日本も依佐美、船橋、針尾、栃木にも小山送信所があります。そういうものを、ぜひつないでほしいと思います。

  • 西村座長

    長崎造船所の隣辺りに、NTTの小さな資料館があって、この辺の海底ケーブルが残っています。「日本が世界につながった最初」という意味では、大事です。ほかにありませんか。

    まとめると、「7」と「8」は一体化する。「20」は若干中身を変える。新規ストーリーの三つはよさそうだということ。新規ストーリーの提案があったのは、水道、技術教育、灯台、地下鉄、木材加工、治水と砂防、精密器械、生活文化産業、映画などがあって、八つです。

  • 事務局松井

    橋梁、港と鉄道、電源開発があります。

  • 西村座長

    全部を合わせるとオーバー気味なので、レジャー等を重ねるとか、事務局で「33」に絞ってかたちにしてもらう。それ以外に関しては、簡単でいいので候補を出してもらい、次までにまとめるということでよろしいですか。

  • 事務局松井

    「25」を、家電で全国版にするという話もありました。

  • 西村座長

    日立や東芝のこともあるので、そうしたほうがいいと思います。全体ではそれぐらいだと思いますが、よろしいですか。そういうかたちで進めたいと思います。次に進みます。「資料3」について、お願いします。

  • 事務局河島

    「資料3」は、委員会の現地視察の案です。昨年度、あまり行ってない地域ということで3カ所を考えています。「(1)」は北海道道東方面、「(2)」は南東北方面、「(3)」は関西方面です。詳しくは、現地の受け入れ体制等の調整もありますので、なるべく早く決めて、皆さんにお知らせします。以上です。

  • 西村座長

    「資料3」について、よろしいですか。

  • 事務局松井

    「ここはぜひ行ってみたい」とか、ここに書いてないところでも、「ここだけは視察をしたい」という要望があれば、調整します。

  • 西村座長

    相手のあることなので、日程が決まり次第、都合を聞くことになると思います。よろしくお願いします。「資料4」について、お願いします。

  • 能勢企画官

    近代化産業遺産に関連した、経済産業省の施策の進捗状況です。

    「(1)」の先進事例集は、11月中をめどに完成の予定です。「別添1」にイメージを付けていますが、事例ごとに優れた点などをまとめ、可能であれば、右下の「この人に聞け!」で、頑張っている人の生の声を入れて、ビビッドなかたちでアピールをしたいと考えています。

    「(2)」の中学生向けDVDは、撮影に入っています。来年1月をめどに完成の予定です。

    「(3)」のオープンコンテント電子ガイドブックは、年度内に群馬県の桐生市を素材に試作をします。10月初旬に入札の予定です。

    「(4)」は、去年横浜の赤レンガ倉庫でやったのと同じような「担い手サミット」、認定書の授与式、シンポジウム等を、来年の2月に大阪でやるべく準備中です。2月9日、17日、23日のいずれかということで、中央公会堂を仮押さえしています。

    最後は、「近代化産業遺産のさらなる活用を促進」ということで、事務局でいろいろな案を考え、冒頭の大塚審議官のあいさつにあったような取り扱いにしたいと思います。以上です。

  • 西村座長

    議論は終わりましたが、松尾委員から紹介があります。

  • 松尾委員

    産業遺産の活用の件ですが、9月28日日曜日、午後6時から、TBSの「世界遺産」という番組で、フェルクリンゲン製鉄所の紹介があります。フェルクリンゲンは、実際にあった製鉄所をそのまま凍結して保存し、公園やいろんな事業に活用しています。非常にユニークな利用法だと思います。産業遺産の活用について、いろんなヒントが得られると思うので、ぜひご覧ください。

  • 西村座長

    次回か次々回に議論ができるので、そのときに、イメージを膨らませるためにもいいかもしれません。最後に次回の日程を決めたいと思います。次回は、11月12日水曜日の午前10時から12時です。第二回産業遺産活用委員会を閉会します。ありがとうございました。

以上

 
 
最終更新日:2008年10月28日
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