第5節 為替レート変動と日本経済
1.大きく変動した為替レートとその影響
95年の為替レートの動きをみると,円の対ドル名目レートは,年初100円前後であったが,3月から4月にかけて急激に円高が進行し,4月19日には,瞬間的に戦後最高値である79.75円を記録した。5月,6月には80円台半ばで推移した後,8月に90円,9月に100円と円高是正に転じた。年末までおよそ100〜105円で安定的に推移し,96年に入ってからも,105円前後で推移している(第1-5-1図)。また,日本の貿易額ウェイトで加重平均した名目実効為替レートをみても,95年中は,3月から4月にかけて前月比約8%上昇し,7月から8月にかけては同約7%減少するなど円レートは大きく変動したことがわかる。
(1) 円レートの短期的変動
95年中の為替レートの変動の特徴は,このように対ドル名目レート,実効レートとも,大きく変動していることである。こうした短期の変動について把握するため,各年において,対ドル名目レートの月末値の月ごとの変化の度合いについて標準偏差を求め,その数値をボラティリティ指数として定量化したところ,95年については,プラザ合意のあった85年以降の10年間で最も大きな変動がみられた(第1-5-2図)。為替レートの短期的変動が大きいことは,海外との取引を行っている企業の販売・仕入れ価格に大きな影響を与えるとともに,将来の為替レートに関する不確実性が高まり,企業収益の見通しを困難なものにすることから,貿易,設備投資等の実物経済へも悪影響を及ぼすものと考えられる。
通商産業省が実施したアンケート調査(注74)によると(第1-5-3図),為替の変動が企業に与える影響については,原材料価格や輸出数量が大きく変動し,生産や設備投資の計画が立てにくいとする回答が多く,為替レートのボラティリティの拡大に伴い,経済活動にさまざまな支障が生じているものとみられる。企業はこのような為替変動のリスクを未然に防ぐため,さまざまな方法でリスク回避に努めている。その方法についてみると先物為替予約及び円建て取引へのシフトをあげる企業が多い(第1-5-4図)。
(2) 円高の影響
前述のように,為替レートの短期的変動そのものの影響も小さくないが,同アンケート調査によれば円高方向への急速な変動の影響は特に大きいとの回答が得られている。95年中の為替変動が輸出数量に与えた影響をみると(第1-5-5図),円安局面で輸出数量が増加したと回答した企業は約21%であったが,円高局面においては約46%の企業が減少を経験している。また,生産工程の変化について円高によるものかどうか尋ねたところ(第1-5-6図),近年,海外への工場移転について円高要因を指摘する企業が多かった。ただし,これ以外の生産工程の単純化,部品点数の削減等の変化については,景気変動等円高以外の要因によると回答した企業のウェイトが高い。企業はこの他にも,円高への対応策をさまざまな形で採用している。その対応策の内訳をみると(第1-5-7図),製造コストの引下げ,販売・一般管理費等の節減等のコスト削減策が全体の約3分の2を占めており,円高による製品販売額の手取りの減少をコストの削減によって補う傾向が強いものとみられる。しかし,円高に伴う製品の総合的な競争力への影響を聞いたところ,大きく低下した,やや低下したが過半を占めており,コスト削減努力にも限界があったことがうかがえる。
(3) 為替レートの変動要因
次に,為替レートの変化をもたらしている要因について検討してみる。
近年,国際資本取引の自由化が進展する中で,財やサービスの輸出入に伴う為替取引の他に,為替市場における資本関連取引のウェイトが高まりつつある(第1-5-8図)。こうした資産取引が為替レートの決定に及ぼす影響が大きくなっていると考えられる。
そこで,為替レート水準が自国通貨建て資産と外国通貨建て資産との相対的な価格によって決定されるとするアセット・アプローチによって分析を試みた。
為替レートの変動要因としては,@リスクプレミアム要因(注75)に基づいて,経常収支から直接投資(注76)を控除したものの累計額の対GDP比,A投資収益の差による資産選好への影響をみるために実質金利差,及びB予想インフレ率格差として長期金利の対前期比伸び率の差,を取ったところ,95年前半の実績値の動きは推計値から円高方向に乖離していることがわかる(第1-5-9図)。
他方,95年に入ってからの円高が急激かつ大幅であったことから,円の対ドルレートが経済的ファンダメンタルズを反映した為替レートから大幅に乖離しているのではないか,との議論がなされた。為替レートは,さまざまな経済要因を反映して決定されるものであり,一義的に適正な為替レート水準を念頭に置くことは困難である。ここでは,為替レートの長期的な変動要因を説明する一つの考え方として,貿易相手国との物価水準の差により為替レート変動を説明しようとする「購買力平価(PPP,Purchasing Power Parity)説」に基づき,為替動向をみることとする。購買力平価については,基準年の取り方,物価指数の構成の違い等により計算結果に差が出ることには留意を要するが,ここでは,円が変動相場制に移行した73年を基準として,その後の二国間の物価変動の差を考慮した相対的購買力平価理論の考え方に沿って為替レートの動向を考察することとする。円,マルクの対ドルレートについて,消費者物価,卸売物価等の各指数を用いて購買力平価を算出したところ(第1-5-10図,第1-5-11図),円は消費者物価により求めた購買力平価が実勢相場よりかなり円安の水準で推移している一方で,輸出デフレータにより求めたものは86年以降ほぼ実勢相・BR>
黷ニ見合った動きをしていたが,93年以降は実勢相場の方が円高方向に乖離していることがわかる。一方マルクは,指数ごとに算出した購買力平価の差が小さいことがわかる。
物価指数による動きの差は,主に各物価指数を構成する品目やウェイトが異なるために生じている。例えば,94年において低下傾向で推移した国内卸売物価指数と対前年比約+1%程度で推移した消費者物価指数の伸び率の内訳をみると,消費者物価指数だけに含まれるサービス価格の上昇と,国内卸売物価だけに含まれる中間財価格の低下が,両指数の動きの差の大部分を説明する。また,輸出デフレータにより算出した購買力平価が名目為替レートに最も近い動きを示しているのは,特に日本の輸出品目に工業製品が多く海外製品との競争に常に直面しているため,裁定が働きやすいこと等が考えられる。
実勢相場の卸売物価(マルクは工業品物価)指数による購買力平価からの乖離をみると,95年以降の円高はドルに対してはその乖離幅を拡大させる方向にあるが,マルクに対してはほぼ変化がない。一方,マルクのドルに対する購買力平価をみると,94年以降,実勢相場は購買力平価からマルク高の方向に乖離する傾向がみられる(前掲第1-5-10図,第1-5-11図)。
(4) 円の国際化
日本の輸出はドル建ての割合が高いことから,95年半ばまで急速に進展した円高の中で,企業がドル建て輸出分の円ベースでの収入の減少を余儀なくされたことを背景として,日本の貿易に占める円建決済比率の動向に注目が集まった。しかし,輸出に占める自国通貨建決済比率は,95年9月現在,比較的その割合の高いアジア向け輸出についても自国通貨建ては5割に満たず,最近ではむしろ輸出の円建て比率は低下している(第1-5-12図)。
一般に貿易取引における決済通貨の取決めに際しては,取引当事者の為替相場観による他,一次産品等の国際取引にみられる慣行,製品の非価格競争力等が大きな決定要因となる。さらには,親子会社等のグループ企業取引における為替リスクの一元管理に伴う決済通貨の選択や,一企業内での輸出と輸入の決済通貨別ポジションのバランスを図る,あるいは,為替変動による採算の不安定化を回避する観点から輸出の円建比率を高めるなど,企業としての為替変動へのさまざまな対応の存在も考慮する必要がある。日本としては,企業のこうしたさまざまな取り組みを踏まえつつ,日本企業を含む,取引者が各種の国際取引において通貨選択の自由度をより広げることができるような「円の国際化」のための環境整備を進めることが重要である。そのためには,内外の取引主体にとってより円滑かつ効率的な円の調達,運用の場を形成し国際取引上の利便性を向上させることによって,円が国際通貨として一層世界に認知されていくことが必要になる。
こうした観点からは,これまでユーロ円債市場についてみれば,94年1月,95年8月に非居住者ユーロ円債の還流制限の撤廃等の措置が実施され,また居住者ユーロ円債についても98年4月を目途に同還流制限の撤廃の方針が決まるなど,円の利便性を高めるための措置が講じられてきた。今後についても,日本の金融・資本市場を含め,円の利便性を高めるための規制緩和の推進等,一層の環境整備が期待される。
また,こうした円の国際化は日本の投資家が為替リスクの管理を伴わない形で世界に資本輸出をする機会を広げる意味においても有意義であると考えられる。
2.景気回復を確実なものとするための努力
これまでみてきたとおり,為替レートの大幅な変動は企業活動に大きなリスクをもたらし,実体経済にもさまざまな悪影響を与える。実際,95年には3月以降の急激な円高等により,年半ばから景気は足踏み状態となった。こうした状況の下,95年4月に発表された7か国蔵相・中央銀行総裁会議における声明と,それに沿った各国政策努力の結果,円相場が円高是正の方向へと反転した。今後とも為替相場が経済のファンダメンタルズを反映して安定的に推移することが求められている。日本としては, 先進各国との協調体制を一層強化していく必要がある。
95年には,円高への対応・経済の活性化を図るべく,以下のような対策が策定,実行されている。
4月には,急激に進行した円高を背景に,緊急円高・経済対策が策定された。本節でもみてきたように,急激な為替レートの変動は企業活動に大きな影響を与え,日本経済に重大な悪影響を及ぼすおそれがある。こうした認識の下,日本自らが緊急に取り得る措置として,@機動的な内需振興策,A規制緩和推進計画の前倒し実施(5年計画を3年計画へ),等の施策が行われた。また同時に,公定歩合が1.75%から1%に引下げられ,経済活動に対する金融面からのサポートが行われた。
6月には,前述の緊急円高・経済対策の効果を更に高めるため,緊急円高・経済対策の具体化・補強を図るための諸施策をとりまとめた。具体的には,公共事業の施行促進,所得税減税の継続等の内需振興策,輸入・投資に関する対日アクセス改善のための体制の確立等が図られている。
8月には,国内機関投資家等による海外投融資の促進を柱とする,円高是正のための海外投融資促進対策が策定された。
さらに9月には,景気の先行きに対する不透明感を払拭し,日本経済の回復を確実なものとするべく,公定歩合が1%から史上最低の水準を更新して0.5%に引下げられた。また同月には,これまでの施策に加えて更なる対策をとることにより,景気回復を確実なものとすべく経済対策が策定された。この対策においては,公共投資等を含め総事業規模14.2兆円程度の過去最大級の事業規模による内需拡大,経済構造改革の一層の推進策等が盛り込まれている。
これらの対策を始めとしたマクロ,ミクロ及び産業構造面の施策を着実に実施することにより,日本の経済構造改革を推進し,日本経済の安定的かつ持続的な成長の実現を図ることが求められている。