スマートフォンやパソコンの普及にともない、オンラインで行政手続きを行う仕組みが広がりつつある。
しかし、行政の提供するシステムに対して、「使い勝手が良くない」「紙の方が楽」といった声が寄せられるケースは少なくない。ただ既存の仕組みをデジタル化するだけでなく、ユーザーが利便性を実感できる行政サービスの実現が求められている。
より効率的な行政サービスの提供とデータにもとづく精緻な政策立案を目指したデジタルトランスフォーメーション(以下、DX)を進める上で重視しているのが、「いかにユーザーに便利な体験を届けるか」という視点だ。今回は、そうしたユーザーの体験にフォーカスしたデジタル化の事例として、産業保安グループによる「産業保安法令手続の電子化プロジェクト」を紹介する。
本プロジェクトの背景や具体的な取り組み、今後の展望について、産業保安グループ保安課企画調整係長の村上豊、同グループ製品安全課企画調整係長の中村光希に話を聞いた。
産業保安グループ保安課企画調整係長 村上豊
村上と中村の所属する「産業保安グループ」は、電気やガスなどのインフラを提供する事業者と、それらを利用する事業者の双方が、技術基準を守っているかチェックし、安全を担保する役割を担う。
グループは大きく「産業保安」と「製品安全」の分野に分かれる。前者は、例えば、オフィスビルや商業施設など、電気を使って営業する施設や発電所に対し、開業時の審査や定期的な立入検査を行う。後者の製品安全では、家電やモバイルバッテリーなど、電子機器の安全性などの検査を担当している。
産業保安グループでは、全国に9ヶ所にある「産業保安監督部」や、「経済産業局」という地方支分局と連携し、審査の受付や立入検査を実施している。新たに開業する事業者の審査だけでも、その数は年間数万件以上。それらをすべて紙書類で処理する事務コストは膨大だ。
同グループではDXの取り組みが始まる前から、デジタル化による業務効率の向上が度々議論に挙がっていた。
村上 「事業者が監督部の窓口へ申請しに来た際、記入項目に不備があれば、再び書類を用意し、再提出が必要になります。再度窓口に足を運んだり、再び確認するコストを考えると、申請をする事業者、審査をする監督部の双方にとって大きな負担でした。 また、申請にかかる作業量が膨らんでしまうと、現場の立入検査に割けるリソースにも影響を及ぼします。審査後に正しく運用されているかを監督することも重要な役割なので、そこへ十分なリソースを確保することも重要です」
産業保安グループ製品安全課企画調整係長 中村光希
デジタル化によって、事務作業に必要なリソースを削減できるだけでなく、部内で蓄積されてきたナレッジを共有できるという期待もあった。ナレッジの共有は、職員の高齢化が進む同部署と全国の産業保安監督部にとって、喫緊の課題だ。
中村 「ベテラン職員は審査や立入検査を行う際、長年の経験から『ここは少し怪しい』と違反に気づくことができます。 その“経験に基づく感覚知”は、彼らの退職とともに失われてしまう恐れがありました。日々の審査や立入検査のプロセスをデータとして記録すると、感覚知を誰もが参考にできる形で蓄積できると考えました」
暗黙知をデータとして可視化し、誰もが活用できるようになれば、組織全体のパフォーマンス向上も見込める。プロセスを便利にするだけではない、デジタル化による大きなメリットだ。
数々の課題を解決すべく、2017年に申請手続きをデジタル化するプロジェクトが始動。発起人の呼びかけにより、デジタル化に関心のある若手職員が集い、およそ12人のチームを結成した。
チームがまず取り掛かったのは、過去のデジタル化における失敗の振り返りだった。
村上 「これまでも申請用のシステムを開発した例がありましたが、うまく導入が進みませんでした。その要因として、システムが完成してから『さあ、これを導入してください』と現場の審査担当に伝える、“トップダウン”的なアプローチがあるのではないかと考えました」
なぜトップダウンではうまくいかなかったのか。同じ轍を踏まぬよう、チームは議論を重ねていった。
村上 「以前のやり方では、審査担当者の意見を取り入れるプロセスがなかったため、現場のニーズとかけ離れた仕組みになってしまっていたのです。また、『なぜデジタル化するのか』といった目的の共有も不十分で、電子申請したいと相談があっても『よくわからないから紙で』となってしまったケースもあったと聞いています。 本来は、監督部など審査する側が自ら利用を勧めたくなるシステムでなければいけない。そのためには、審査担当者を積極的に巻き込んでいく必要があると考え、開発プロセスの方向性から見直していきました」
チームは、全国の監督部の担当者一人ひとりにプロジェクトの目的や内容を伝え、協力を仰いだ。電話やメールで議論を進めるのではなく、2泊3日の合宿を実施したのだ。一度は失敗したデジタル化への再挑戦。決して、ポジティブに受け止められたわけではなかった。
村上 「みなさん合宿に足を運んでくれたものの、初めから全員が積極的だったわけではないと思います。今度こそは本気であると伝えるため、合宿ではプロジェクトの目的や内容、何より『なぜ監督部の意見を求めているのか』について、繰り返し共有しました」
前提の共有に加え、さらに現場での利用を想定した議論をするため、開発フェーズの合宿では実際に動くプロトタイプを用意。実物を手に取りながら意見を出し合った。
村上 「直接触れるものがあることで、システム開発に明るくない監督部の方でも、具体的な意見を挙げられる。これで議論に弾みがつきました。システムの仕様だけでなく、前提となる手続きのプロセスや、何を簡素化できるかなど、現場の課題から話し合いました。システム開発を委託した事業者(受託者:アクセンチュア株式会社)が現場の声を直接聞くことができたことも、合宿の大きな成果です。」
互いに意見を出し合い最適解を探っていく。この繰り返しのなかで、両者の関係性も徐々に変化していった。
中村 「議論を重ねたことで、監督部にも『意見を取り入れる気があるんだな』と感じてもらうことができ、信頼が生まれてきました。合宿は回を増すごとに熱量が増し、直近の議論では4枚のホワイトボードが両面びっしり埋まるようになりました。 監督部が現場での経験をもとに挙げてくださる指摘は、いずれも私達には気づけないようなものばかり。彼らの声が宝の山だと改めて実感しました」
監督部との合宿を経て、プロトタイプに磨きをかけていったチームは、並行して監督部と同じく大事なユーザーである申請側の事業者へのリサーチに着手する。
監督部の窓口に足を運び、申請に訪れた事業者にプロトタイプを見せながら、「申請時に何を感じ、何に困っているのか」を細かくヒアリングしていった。
村上
「調査前はITリテラシーによってユーザーの反応は二分されるだろうと思っていました。しかし、実際はそこに差はなかった。むしろ『申請に慣れているかどうか』が、大きく影響していました。
また、事業者のなかには、窓口の人と話がしたくて足を運んでいる人もいました。コミュニケーションが皆無になってしまう形でのデジタル化は、求められていない可能性もあるのだと気づかされました」
事前に想定したユーザー像は、実情と大きくかけ離れている可能性もある。チームは、その乖離を前提とし、実際に目で見てニーズを確かめる重要性を改めて実感した。
審査担当者と事業者、両ユーザーの声に真摯に耳を傾け、システムに反映していく。村上は今回実践した開発プロセスを、省内に浸透させていきたいと語る。
村上 「未だに多くの申請が紙で行われている背景には、『紙の方が楽だ』と思っている人が多い状況もあります。実際、既存の仕組みは紙に最適化されているので、1件の手続きだけを取り出してみれば電子申請よりも楽なことも多い。しかし、毎年同じ申請をする事業者や、多くの事業者の申請を受け付ける審査担当者にとっては、その作業負担がボディーブローのように効いてくるのです。 これまでなら『決まりなのでこうしてください』と伝えれば、現場で行政サービスを提供する人も、受ける人も、その通り動いてくれました。しかし、デジタル化には、双方を“ユーザー”と捉え、彼らが『こういうのが欲しかった』と感じられるシステムを用意しなければ使ってもらえない。この意識転換を省内に促していく必要があります」
デジタル化を進めていくためには、一人ひとりの意識変革も必要になる。デジタル化ならではの視点を伝えていくことも必要不可欠だ。デジタル化されることでデータが蓄積されれば、新たな可能性が垣間見える。チームは、将来的には申請や立入検査時のデータの活用も検討していく予定だという。
村上 「今後データが蓄積されていくと、違反につながりやすい要素を洗い出し、それらを重点的にチェックできるでしょう。また、取り組んだ施策によってどれくらいそうした要素が改善されたか、効果がない施策は何だったのかなどを把握できます。今よりずっと改善のスピードを上げていけるはずです」
ユーザーの視点に立って、素早く的確に改善を行う。今回のプロジェクトはそんな新たな経産省の姿を示してくれた。
来年のシステムのリリースに向け、チームは操作時のガイド機能や入力支援機能を充実させるなど、ユーザー視点のブラッシュアップに余念がない。監督部からはシステムに対する意見が頻繁に寄せられ、日々活発な議論を交わしているという。
行政の仕事は、ルールや仕組みを策定し「いかに守ってもらうか」という観点から組み立て、実行するものが多い。しかし、デジタル化に向け協力を得るには、単に現在のルールをデジタルに置き換えるのではなく、村上の語った通り「どのようなルールなら守ってもらえるのか」という考え方への転換が欠かせない。
チームの若手職員たちが、同プロジェクトで培ったユーザーに寄り添う力を存分に発揮し、DXを牽引してくれることに期待したい。