経済産業大臣表彰/田邉 新一(たなべ しんいち)氏
早稲田大学 創造理工学部 建築学科 教授
シックハウス対策の標準化で健康と安全を守る
1996年に国会でシックハウスの問題が取り上げられ、大きな社会問題として注目された。当時の新築住宅においてホルムアルデヒドなどの有機化合物で目や喉が痛くなり、体調不良になる事例が多く報告され、建設省、厚生省、通産省、林野庁(いずれも名称は当時)が合同で組織した健康住宅研究会が立ち上がるとともに、厚生省が「シックハウス(室内空気汚染)問題に関する検討会」を設置した。今回の受賞者である早稲田大学の田邉新一氏もその委員の一員である。
田邉氏の専門分野は建築環境学。省エネかつ快適で健康的な住宅や建築を実現させようというのが研究テーマだ。シックハウス対策として田邉氏がまず取り組んだのが、建材や施工材からVOC(volatile organic compounds(揮発性有機化合物))※が放散する量を測定すること。室内濃度は放散量と換気量で決まるため、室内濃度のみに注目するだけでは科学的対策が難しい。住宅に必要な換気回数なども決める必要があり、田邉氏らはJIS(日本産業規格)原案の作成に着手することになった。
※揮発性があり、大気中で気体状となる有機化合物の総称。ホルムアルデビドやトルエン、キシレンなど人体への有害性を持つ物質が含まれている。
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図1 20L小形チャンバー建材などからの揮発性有機化合物の放散量を測定するために1997年頃に早稲田大学が開発した20Lのステンレス製小形チャンバー。
(画像提供:早稲田大学)
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図2 チャンバー(左)と清浄空気供給装置(右)を用いて測定を行う様子この装置の開発により、放散量測定におけるコンタミネーション注)を低減させ、実用に耐えるようにし、かつ安価なものとなった。この装置はJIS A 1901の付属書に収録されることになった。また、現在も国交省の大臣認定試験などに使用されている。
注)本来測定しようとしている化学物質以外の化学物質が混入してしまうこと。
建材などの揮発性有機化合物の測定では装置に吸着したり、部品からもVOCやSVOCが発生したりするため、コンタミネーションを低減することが難しかった。 (画像提供:早稲田大学)
実はシックハウスの問題は、日本よりも欧米の方が先に起こっていた。シックビルディングシンドローム(SBS)と呼ばれ、欧米では1980年代から問題が顕在化していた。1994年にはISO(国際標準化機構)/TC146(大気の質)/SC6(室内空気)の初回委員会がドイツで開かれている。「JIS原案を策定する上で参考にしたのが、欧州のレポートとISOの原案だった。」と田邉氏は振り返る。国内では室内濃度の測定方法、建材からの化学物質放散測定法が整備されていなかったため、欧州の知見を基盤としてこれらの室内空気関連のJIS原案を取りまとめた。こうして、居住者だけではなく、住宅生産者も安心して新築できるようなった。
その後、2002年には日本の建築基準法が改正され、有害物質の放散量や濃度指針値などを基準としたシックハウス対策が義務付けられ、2003年に施行された。改正建築基準法では、建築材料の基準や測定方法としてJISが引用され、接着材や塗料などに用いられているホルムアルデヒド及びシロアリ対策の薬剤クロルピリホスが規制対象となるとともに、24時間換気システムの設置が義務化された。これにより2000年には新築住宅の13.6%が濃度指針値を超えていたが、2005年には0.3%まで激減。JISの整備が大きく貢献し、現在でも建築基準法、同法における建材の国交省大臣認定、住宅の品質確保の促進等に関する法律に基づく住宅性能表示制度などに活用されている。例えば、住宅を購入する際、住宅メーカーから「建材はホルムアルデヒド放散量F☆☆☆☆の製品を使用しています。」と言われた経験は誰もがあるのではないか。
ところで、こうしたVOCを含む接着剤や塗料は、輸入品や日本から海外へ輸出されるものもあり、測定の基準が同じでないと問題になる。そして、大きな問題が起きた。日本では夏になると気温上昇により、VOC放散量が増加することと、建築物衛生法の室内上限温度が28℃であるため、JISでは温度条件28℃で測定することとしていた。ところがISO規格の温度条件は23℃となっており、ISO規格に基づいた接着剤や塗料を輸入するためには、日本では再度測定しないと使用できないことになる。田邉氏は「ISOに直接働きかけて、規格を変えてもらう必要がある。」と思い立ち、2003年から国際標準化活動にも関わるようになった。
室内空気の質に関する標準化は欧米が進んでいる。田邉氏の意見は「新参者が何を言うか。」といった感じで、最初はまったく相手にしてもらえなかった。しかし、日本の状況と齟齬があるところを修正してほしいと訴え続けたところ、「タナベがそこまで言うなら考えよう。」とまで言ってもらえるように。ようやく2005年、「気候条件によっては他の温度を採用してもいい。」という一文を加えてもらえることになった。
近年は、シックハウスが社会問題化した当時と比べてグローバル化の進展に伴い、輸入建材の量が飛躍的に増加しており、建材を日本に輸出しようとする企業にとっては欧米向けと日本向けの温度条件で試験しなければならず、コスト削減のためには、1つの温度条件でやりたいと考えるのは当然であり、田邊氏の尽力がなければ、日本人の健康を守るための当然の試験条件が非関税障壁であるとの問題を提起されかねなかった。また、日本のみならず、アジア諸国など欧米諸国と異なる気候条件の国々の健康を守ったことになり、試験条件に関する一文の改正に過ぎないが、この改正は極めて意義のある功績である。
アジア人初のSC6国際議長に就任。「日本の国力のためにも国際標準化活動は必要。」
こうしてISOの仲間入りを果たした田邉氏は、2006年からSC6/WG12(建築材料からのSVOC(準揮発性有機化合物))のコンビーナとして活躍。ISO16000-25(室内空気-第25部:建築材料からの準揮発性有機化合物(SVOC)の放散測定-マイクロチャンバー法)は、国内でのJISの成果を基にISO規格として提案し成立したものだ。
「SVOCは主にプラスチック製品に添加されている化学物質で、沸点が高く吸着性が強いため、それまで測定するのに良い方法がなかった。しかし、JISの測定方法は簡便で速く測定することができるため、新しい方法としてISOに提案した。」と田邉氏。
この他にも、吸着建材やTVOC(総揮発性有機化合物)測定装置など、日本提案によるISO規格の制定や改正を積極的に推進し、日本のプレゼンスを高めてきた。こうした実績や貢献的な姿勢が評価され、田邉氏は2014年にSC6の国際議長に就任することになった。これまで2代の国際議長はドイツ人が務めており、SC6の事務局は現在もドイツ技術者協会(VDI)が担当している。日本人の選出は、アジア人初で極めて異例のことだ。「活動歴も長いし、個人的な利害関係を主張しないことや、学者であることが評価されたのでは。」と田邉氏は謙遜する。
3代目の国際議長として現在特に取り組んでいるのは、2007年から建材に加えて追加された自動車車室内の測定評価に関する国際標準化の取りまとめだ。路上走行車内の室内空気を測定する規格としてISO 12219シリーズとして車室内で使用される材料や部品のVOCやSVOCの測定方法が既に規格化され、その後、第10部(トラック及びバス)と第11部(非金属材料の有機排出物の熱脱着分析)を提案中であり、DIS(国際規格案)段階にある。
「車についての考えは国によって異なり、例えば日本では車の部品で考えるが、欧州ではモジュール(組み立てユニット)として考える。当初は、参加各国の意見が異なりまとめるのが相当大変だった。」という。しかし、「日本人としてではなく、国際議長として自動車車室内空気の安全を守る。」という中立的な立場で各国の意見調整に努めたことで、当初難航していた自動車車室内の国際規格整備は一気に進んだ。「国によっては独自の規格があるが、『世界共通』を目指したい。」と田邉氏。国際議長としての手腕がますます期待されている。
田邉氏が携わるのはいわば環境規格というものであり、人が健康で快適に過ごすためのものだ。「最近の研究でもやはり脱炭素や省エネと快適な環境との両立を重視している。私の一生のテーマだ。」と話す。
国内で考えているだけでは新しく何が起こるかわからず、論文を読むだけでは本当の最先端には近づけない。標準化活動の場での議論を大切にし、次に何が起こるかをしっかりとらえて、日本の産業界に報告することが大切だという。「標準化する力が衰えてくると、日本の産業にも影響が出てくる。若い人たちは、早い時期から海外に出て慣れていくことが重要だ。」とメッセージをいただいた。
【標準化活動に関する略歴】
1984~1986年 デンマーク工科大学留学
1986年 早稲田大学理工学部 助手
1988年 お茶の水女子大学家政学部 専任講師
1992年 同生活科学部 助教授
1998年 同大学院人間文化研究科 助教授
1999年 早稲田大学理工学部建築学科 助教授
1999年~2000年 JIS B 8628(全熱交換機)原案作成委員会 委員長
2000年~2007年 室内空気関連JIS(計23件)原案作成委員会 主査
2001年 早稲田大学理工学部建築学科 教授
2002年~2003年 JIS B 8628原案作成委員会 委員長
2003年 デンマーク工科大学 客員教授
2003年~2013年 ISO/TC146/SC6 エキスパート
2007年~2011年 ISO/TC146/SC6/WG12 コンビーナ
2007年 早稲田大学理工学術院創造理工学部建築学科 教授
2010年~2014年 ISO/TC146/SC6 国内対策委員会 委員長
2011年~2013年 室内空気関連JIS(計23件)原案作成委員会 委員長
2014年~現在まで ISO/TC146/SC6 国際議長
2016年~2017年 JIS B 8628 原案作成委員会 委員長
2017年~2020年 JIS A 1460(建築用ボード類のホルムアルデヒド放散量の試験方法─デシケーター法)原案改正委員会 委員長
最終更新日:2024年5月21日