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産業技術メールマガジン/技術のおもて側、生活のうら側 第133号
◆技術のおもて側、生活のうら側 2020年5月28日 第133号
こんにちは。いつもご愛読いただき、ありがとうございます。
このメルマガでは、私たちの暮らしを支える産業技術をご紹介していますが、今回は少し趣向を変えて、「人文科学」の視点から科学技術を考えるというテーマでお送りします。
「人文科学」の視点から科学技術を考える
藤原先生は、著書「トラクターの世界史」(中公新書)において、19世紀末にアメリカで発明されたトラクターが、アメリカでは民間主導により、ソ連、ドイツ及び中国では国家主導により世界中に普及していく中で、農村・社会・国家にどのような変化をもたらしたかを膨大な資料と綿密な取材に基づき分析しています。なぜトラクターに着目したのか、人文科学から見て科学技術の発展をどのように捉えるかについてお話していただきました。
質問1 なぜ農業史を専門とされたのでしょうか?
学部の時は農業史を専門にしていたわけではありませんでしたが、島根にある実家が農業を営んでいたこともあり、農業と歴史、文化、経済を掛け合わせて研究してみようと考えました。
質問2 先生の著書「トラクターの歴史」を読みました。トラクター開発の話を軸にしながら、欧州の産業革命、ドイツナチスの興亡、ロシア革命、中国の共産主義、トラクターと戦車の関係など、欧米中日―世界全体の政治経済の話に発展して、非常に幅広い内容です。トラクターに着目して、世界全体の変革を俯瞰するというアイディアをどのように得られたのでしょうか?
農業技術史として書いた「トラクターの歴史」ですが、大手通販サイトのレビューでは、機械開発の技術史の本だと思って読んだら違ったので失望したとの読者の声もありました(笑)。
トラクターに関心を持ったのは、小説「ウクライナ語版トラクター小史」(2005年マリーナ・レヴィツカ著)に出会ったことがきっかけです。この本が、トラクターを通して20世紀の歴史全般を見渡せるという気付きをくれました。
レヴィツカの本は、ウクライナでトラクター技師をしていたニコライ老人を軸に話が進みます。トラクター技師は作者の父がモデル。作者の父の手記が小説の元になっています。
当時のウクライナはソ連スターリンの支配下にありました。ただ、独ソ戦によりドイツナチスに占領されます。
ニコライは、ドイツのためにトラクター修理の仕事をしますが、ウクライナは戦後再びソ連の支配に戻ってしまい、ニコライはナチスへの協力者として断罪されるのを避けるためイギリスに亡命します。
この小説は亡命後のニコライ老人を巡って、再婚問題があったり、遺産相続の騒動があったりの喜劇なのですが、実は、背景となるウクライナの状況がまさに問題です。ナチズムとスターリニズムに挟まれたウクライナの歴史は20世紀の問題が凝縮したところだと思います。
ニコライはドイツナチスのトラクターを修理していましたが、世界的に見ると、当時、米国のフォードがトラクターを生産し、それがソ連に輸入され、スターリンはトラクターを中心とした農業の集団化を目指しました。それが、コルホーズ、ソフホーズ政策となって推進されていきます。
ドイツのヒトラーも、フォルクスワーゲンの開発者であるフェルディナンド・ポルシェにトラクターを作らせました(結局大量生産はできませんでしたが)。これは、第1次世界大戦の敗北の一因は飢餓にあるとの反省から、ナチスは国内食料増産政策を重視したからです。
中国でも毛沢東が大規模農業を目指して女性トラクター隊を編成します。社会主義は資本主義と違って女性たちが活躍できる、という宣伝のためです。
トラクターが動くところで、歴史が大きく動く。そのような流れを辿るとトラクターを通して20世紀が語れるのでは、と考えました。
質問3 トラクターの開発という点でも、政治史、世界史という点でも非常に幅広くカバーされていて、多くの人の興味を惹く内容だと思います。講演依頼なども多いのではないでしょうか?
「トラクターの歴史」の中では、トラクターに対して批判的なことも言っています(注)。
クボタやヤンマーからこの本について講演をして欲しいという話が来たときも、トラクターについて批判的なことを言っていますよ、ということを伝えました。
そうすると、これらの農業機械メーカーからは、むしろ批判的なことを言って欲しいとの返事でした。今の社員は(日本の農村では既にトラクターが普通に使われ、社会的に受容されているので)トラクターを当たり前のものだと思っている。
つまり、トラクターが農村・農業者の前に出現した時に与えたインパクト(肯定・否定の双方を含め)を知らない。クボタは今、タイでトラクター開発をしているが、世界にトラクターが登場したときに人々に与えたインパクトを、今まさにタイの農村の人達は感じているのかもしれない。それを知ってもらいたいのだ、とのことでした。
(注:本書の中では、トラクターの登場により、(1)耕地から牛馬が駆逐され、家畜の糞尿の代わりに化学肥料を外部から購入し、農地に大量投入する農業に変わってしまった、(2)土壌を深く耕すようになったので土壌の乾燥化が進み、環境問題が生じた、(3)労働生産性が向上したことにより大量の労働者を農村から都市に流入させ農村と都市の構造を変えてしまった、等の指摘がなされている。)
質問4 藤原先生から見て、技術開発にとって大事なことは何だと思いますか。
例えば、iPS細胞の研究室を調査している文化人類学者に聞くと、実験中のiPS細胞の装置にお守りをかけて願掛けをしている人もいるそうです。研究開発の結果は1対1の一律のものではなく、調子の良し悪しや偶然も介在するのだと思います。ですから、科学の手続きがきちんとできているか、STAP細胞の時もそうでしたが、過剰な競争によって研究が歪められていないか、常にチェックする必要があります。
また、技術と生産、技術と人間の2つのインターフェースがあり、必ずしも技術開発の進展が生産性の向上に直結するわけではないと思います。また、例えば農業を巡っては無数の土壌微生物、天候、災害、汚染など目に見えない変数が多くあります。
トラクターであれば、現在、無人トラクターの開発が進んでいます。無人化やスマート農業が進めば、農地を管理する人は少なくて済むし、そもそも農村にいなくても遠隔地から操作することだってできるかもしれません(必要最低限の管理者は置くにしても)。
でも、それって明治時代の不在地主の復活に逆戻りになってしまいます。農村は人が生きる場です。不在地主ばかりでは、地域のことが分からなくなってしまう。そもそも地域は多様性が重要です。
質問5 技術開発は、数式のように単純にはじき出されるものではなく、それを使う人間や、さまざまな変数・不確定要素、歴史といったことをトータルに考えなければいけないということですね。
最後に、トラクターの登場が農村のみならず国家の在り方にも影響を与え、トラクターは戦車に転用されました。現在でも、技術開発が私たちの社会・生活を変えたり、民生品のデュアルユースや機微技術の取扱いが話題になったりします。「歴史は繰り返す」のとおり、とても古くて新しい話という印象を受けました。本来、研究開発は未来のために行われるものですが、科学技術の発展や研究開発に対して、人文科学の研究が果たす役割をどのように考えますでしょうか?
人文科学は、批判の科学です。正の部分をしっかり発展させていくためにも、負の側面を直視し、分析する勇気を持つことです。
たとえば、ある科学技術が登場して、それが社会に影響を及ぼしている、と考えるとき、その科学技術でどのように文明を発展させていくか、という問いはあまり人文科学の発想にはありません。
その科学技術の現状を分析するというよりは、その科学技術から一歩引いて、歴史的、社会的、哲学的意味を問う、というものです。
たとえば、トラクターや化学肥料のデュアルユースや環境破壊という問題を考えるとき、その影響評価だけを見るのではなく、どうして、有機肥料から化学肥料に転換が起こったのか(トラクターが普及し、糞尿の生産が少なくなったため。化学合成技術が進歩したため)、その中で、化学肥料の企業である二つの会社がどうして、熊本と新潟で水俣病を引き起こしたのか(国際競争にさらされ、拙速に新しい技術を追い求めたため)、どうして、日本の窒素肥料会社が第2次世界大戦前に植民地の朝鮮半島に現地会社を作ったのか(肥料と同じ工場で火薬を作り、軍事と農業の発展を同時に側面援助するため)、などを考えていくと、ここ数年だけで考えるよりも、より鮮明に未来の科学技術とはどうあるべきかがわかると考えます。
以 上
【取材後記】
AI、バイオ、量子コンピューターなど科学技術の発展は私たちの生活の利便性のみならず倫理、社会、法体系の在り方にまで深く影響を及ぼすようになってきました。今般の新型コロナウイルス感染症の世界的拡大においては、テレワークや遠隔授業などのデジタル技術を活用したリモートサービスの普及が一気に進み、「仕事は対面でなければ」といったこれまでの価値観も変えつつあります。
今国会に提出されている科学技術基本法改正案でも、振興の対象となる「科学技術」に新たに人文科学が追加されました。科学技術・イノベーションの進展が人間や社会、文化の在り方と密接不可分であることの顕れだろうと思います。
今では一般に普及している技術も、昔は当時の最先端技術でした。そのような技術が世の中に登場したとき、私たちの世界がどのように変わったのかを「負の側面も直視して」分析する人文科学のアプローチは、新しい技術が私たちの社会経済をどのように変化させるかを予測する重要な道標になるものだと感じました。
<取材協力>(敬称略)
京都大学 人文科学研究所 藤原 辰史 准教授
京都大学 人文科学研究所ホームページ:
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/zinbun/members/fujihara.htm
技術のおもて側、生活のうら側
発行:経済産業省産業技術環境局総務課 執筆/担当 新川元康、松本智佐子
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